新田義貞、敗北からの再起。金ヶ崎城を奪還し、越前で再び立ち上がった武士たち【1】
1337年3月。
越前国敦賀の金ヶ崎城が落城しました。
後醍醐天皇から託された尊良親王と恒良親王。そして新田義貞の嫡男・新田義顕。
尊良親王と義顕は命を落とし、恒良親王は足利方に捕らえられました。
金ヶ崎城を救おうとした瓜生保も、すでに戦死しています。
新田義貞は杣山城にいました。
金ヶ崎城を離れ、外から包囲を破るために軍勢を集めようとしたものの、救援は成功しませんでした。
ここで新田義貞の歴史が終わっていても、不思議ではありません。
重要な拠点を失い、共に戦ってきた武士を失い、自分の息子まで失ったのです。
しかし、義貞は戦いを終えませんでした。
そして翌1338年、義貞の軍勢は再び越前で勢力を拡大し、一度は失った金ヶ崎城を奪還するまでになります。
敗北によって多くを失った軍勢が、なぜ再び立ち上がることができたのでしょうか。
新田義貞には、まだどのような力が残されていたのでしょうか。
そこには、義貞個人の能力だけでは説明できない、多くの人々の働きと、変わり続ける戦況がありました。
金ヶ崎城を失った後、新田軍には何が残されていたのか
金ヶ崎城が落城したとき、義貞の軍勢は非常に厳しい状況に置かれていました。
『太平記』には、その勢力が存在していても、実際にはほとんど力を持たないような状態だったとする表現が残されています。
すぐに反撃を開始できるほどの兵力や物資を確保できていたわけではなかったのでしょう。
金ヶ崎城で失われたのは、城そのものだけではありません。
皇子たちを奉じて北陸に築こうとしていた政治的な拠点。
そこを守るために集まった武士たち。
戦いに必要な武器や兵糧。
そして、新田氏を信じて戦う人々の命。
それらを失ったことは、義貞の軍勢にとって大きな打撃でした。
さらに、足利方は勝利後、武士たちへの恩賞や所領の配分を進めていました。
中世の武士にとって、土地は生活と一族の存続を支える基盤でした。
敵方に属して敗れれば、領地を失うことがあります。
反対に、勝利した側に従い、戦功を認められれば、新たな所領を与えられる可能性があります。
つまり、金ヶ崎城の敗北は、周辺の武士たちにとっても大きな判断材料になりました。
これから誰に従うのか。
どのように自分たちの土地を守るのか。
新田義貞についていくことに、まだ将来はあるのか。
その答えを、それぞれの武士が考えなければならなかったのです。
敗れた軍勢を、再び動かすことの難しさ
勝利を重ねている軍勢には、人々が集まりやすくなります。
勢いがあると判断されれば、これまで態度を決めかねていた武士も加わることがあります。
新田義貞が1333年に鎌倉へ進軍したときにも、各地の武士が加わり、軍勢は拡大していきました。
しかし、敗北した軍勢を再び動かすことは、それとは異なる難しさがあります。
武士たちは、すでに一度大きな敗北を経験しています。
一族の中に戦死者が出た者もいたでしょう。
馬や武器を失い、兵を集めることさえ難しくなった者もいたと考えられます。
再び戦えば、今度こそ領地も一族も失うかもしれません。
そのような状況で、もう一度戦うことを決めるには、何らかの理由が必要です。
新田義貞への信頼。
これまで築いてきた人間関係。
後醍醐天皇方として戦い続ける政治的な立場。
そして、足利氏の支配を受け入れることが、自分たちにとって望ましいとは限らないという事情。
武士たちは、それぞれの立場から判断していたと考えられます。
義貞が命令しただけで、失った軍勢が元どおりになるわけではありません。
人が集まり、協力する関係が生まれ、戦うための準備が整って、初めて軍勢は動き出します。
金ヶ崎城の落城後、義貞が再起するまでには、そのような時間が必要だったのでしょう。
杣山城に残されていた可能性
義貞が拠点とした杣山城は、現在の福井県南越前町にある山城です。
杣山の山頂付近には、中世の城郭に関わる遺構が残されています。
険しい山地を利用した城であり、周囲の交通路を意識した位置にあります。
金ヶ崎城が敦賀湾に面した拠点であったのに対し、杣山城は内陸の山地に位置する拠点でした。
その違いには意味があります。
海に面した金ヶ崎城は、海上交通との関係が重要でした。
一方、杣山城は山地を利用して防御し、南条郡周辺の交通路を見渡せる位置にありました。
ただし、杣山城に入れば安全だったというわけではありません。
足利方が周囲を押さえれば、やはり補給や連絡は難しくなります。
義貞たちは、この城を拠点としながら、周辺の武士たちとの協力を維持しようとしました。
瓜生保は戦死しましたが、瓜生氏の一族すべてが失われたわけではありません。
一人の武将が命を落としても、その一族や関係者が活動を続けることがあります。
中世の武士の力は、個人だけで成立していたわけではないからです。
新田義貞にも弟の脇屋義助がいました。
そして各地には、まだ新田方を支持する武士たちが残っていました。
金ヶ崎城を失っても、新田軍を支える人々のつながりが、すべて消えたわけではなかったのです。