新田義貞と金ヶ崎城の悲劇。二人の皇子と息子・義顕を残し、なぜ城を離れたのか【6】
息子を失った後、新田義貞はどう生きたのか
金ヶ崎城が落城したとき、新田義貞は杣山城にいました。
救援に失敗し、息子の義顕を失い、皇子たちも失いました。
一族を率いる武将としても、父親としても、極めて大きな損失だったでしょう。
ただし、義貞がその知らせを聞いて何を語ったのか、心の中でどのように受け止めたのかは分かりません。
悲しみや後悔があったと想像することはできます。
けれども、その想像を史実として書くことはできません。
ここで注目したいのは、義貞がその後も生き、戦い続けたという事実です。
金ヶ崎城を失った後、新田方の勢力は一時的に弱まりました。
すぐに反撃できるだけの軍事力は残っていなかったと考えられます。
それでも、義貞は弟の脇屋義助らとともに、越前で再起を目指しました。
1338年には勢力を回復し、金ヶ崎城を奪い返すなど、再び軍事行動を進めています。
一度は失った拠点を取り戻すまでに、義貞たちは何をしたのでしょうか。
どのように武士たちの協力を得たのでしょうか。
なぜ人々は、金ヶ崎城での敗北を経験した後も義貞とともに戦おうとしたのでしょうか。
その過程には、新田義貞のもう一つの姿があるように思います。
それは、勝利を重ねて進軍する武将ではなく、敗北によって多くを失った後も、新たな行動を起こす人物の姿です。
金ヶ崎城に残されたもの
現在の金ヶ崎城跡は、国の史跡として保存されています。
城跡へ向かうと、かつての尾根や斜面、城戸や堀の痕跡を見ることができます。
山の上からは敦賀湾が広がります。
海は穏やかに見える日もあるでしょう。
しかし、約700年前、この場所には城を守る人々がいました。
敵の軍勢を見張る者。
食料を分け合う者。
負傷した仲間を支える者。
そのすべてが記録に残っているわけではありません。
いま残されている地形や遺構から、当時のすべてを知ることはできません。
それでも、実際の場所に立って海や山を眺めることで、歴史の出来事を別の角度から考えることができます。
城の立地が持つ意味。
交通路を押さえることの重要さ。
救援に向かう軍勢が越えなければならなかった距離や地形。
文字だけでは分かりにくいことが、現地を訪れることで少しずつ見えてくる場合があります。
ただし、現在の海岸線や道路、植生は当時と同じではありません。
残された史跡を手がかりにしながら、どこまでが確認できることなのかを考える姿勢も必要です。
敗北の中で、人は何を守ろうとするのか
新田義貞は、金ヶ崎城で大きなものを失いました。
後醍醐天皇から託された皇子たち。
自分の息子。
そして、共に戦った多くの人々。
瓜生保も、金ヶ崎城を救うために命を落としました。
この戦いの結果だけを見れば、新田方の失敗です。
しかし、そこに至るまでの人々の行動をたどると、違うものも見えてきます。
新田義貞は城を救うために外へ出ました。
瓜生保はその救援に加わりました。
新田義顕は城に残り、防衛を担いました。
皇子たちも、北陸で新たな政治的拠点を築く構想の中心に置かれていました。
それぞれが異なる役割を担い、一つの目的に向かって行動していたのです。
彼らの選択が、すべて成功したわけではありません。
むしろ、金ヶ崎城では多くの判断が望んだ結果につながりませんでした。
それでも、その行動を結果だけで評価してしまえば、彼らが置かれていた状況や、何を実現しようとしていたのかが見えなくなります。
歴史を考えるとき、勝った人物の行動だけに価値があるわけではありません。
敗れた人物にも、考え、判断し、行動してきた歴史があります。
そして、その周囲には、運命を共にした多くの人々がいました。
新田義貞が金ヶ崎城を離れた理由を考えることは、一人の武将の判断を裁くことではなく、その判断によって運命を分けた人々の姿を見つめることでもあるのです。
金ヶ崎城の悲劇を越えて、新田義貞は再び立ち上がります。
その先には、越前での反撃と、藤島での最期が待っていました。
しかし、義貞の死によって、新田一族の歴史が終わるわけではありません。
弟の脇屋義助をはじめ、生き残った人々が、その後の時代を歩み続けていくことになります。
歴史は、一人の人物の勝利や死だけで完結するものではないのです。