新田義貞、敗北からの再起。金ヶ崎城を奪還し、越前で再び立ち上がった武士たち【2】
弟・脇屋義助が担った役割
新田義貞の戦いを考える上で、弟の脇屋義助の存在は欠かせません。
義助は、兄とともに鎌倉幕府の滅亡に関わり、その後も多くの戦いを経験してきました。
1336年、義貞が二人の皇子とともに北国へ向かったときにも、義助は行動を共にしています。
金ヶ崎城の攻防では、兄とともに城を離れ、杣山城から救援を試みました。
そして、金ヶ崎城を失った後も、越前で戦い続けます。
ここで義助を、ただ義貞に従う弟としてだけ見るのは十分ではありません。
義助自身も軍勢を率い、戦場で判断を求められる立場でした。
新田氏の軍勢が一か所にまとまって行動するのではなく、複数の部隊に分かれて戦うときには、それぞれを率いる人物が必要になります。
義貞がすべての戦場に同時に立つことはできません。
敵の動きを調べる者。
別の場所で軍勢を率いる者。
城を守る者。
周辺の武士たちと連絡を取る者。
そうした役割を分担することで、一族としての軍事力が成り立っていました。
義助は、その重要な役割を担う人物でした。
そして翌1338年、義助の行動が、新田軍の反撃につながる大きなきっかけとなります。
越前だけではなかった、後醍醐天皇方の動き
金ヶ崎城が落城したころ、後醍醐天皇方の軍事活動は越前だけで行われていたわけではありません。
後醍醐天皇は吉野に移り、足利尊氏が支持する京都の朝廷と対立していました。
一方、北畠顕家は東北地方を拠点として軍勢を率いていました。
顕家は、1336年初めに京都へ進軍し、尊氏を西国へ退かせる戦いに大きく貢献した武将です。
その後、再び東北で活動し、1337年には二度目の西上を開始しました。
この時期の後醍醐天皇方には、各地の軍勢を利用して足利政権へ対抗しようとする動きが見られます。
新田義貞が越前で再起を目指していたことも、その広い戦況の中で考える必要があります。
もし義貞が越前から南へ進み、東北から西上する顕家の軍勢と連携できれば、足利方に対して大きな軍事的圧力をかけることができます。
しかし、そのためには軍勢がそれぞれの地域から移動し、連絡を取り、適切な時期に行動しなければなりません。
地図の上では近づいて見える二つの軍勢も、実際には山や川、敵の拠点によって隔てられています。
兵糧を確保する必要もあります。
一つの軍勢が予定どおり進めなければ、もう一方の行動にも影響します。
同じ目的に向かって戦っていても、実際に連携することは簡単ではなかったのです。
北畠顕家、再び東北から京都を目指す
1337年、北畠顕家は東北から大軍を率いて西へ向かいました。
その進軍は、東国の武士たちを巻き込みながら進みます。
そして1338年1月、顕家の軍勢は美濃国青野原で足利方の軍勢と戦い、勝利しました。
青野原は、現在の岐阜県関ケ原町周辺にあたります。
東国から京都へ向かう軍勢にとって、重要な交通路に位置する地域でした。
この戦いに、新田方からの援軍も加わっていたことが『太平記』に記されています。
つまり、義貞と顕家の軍勢は、まったく無関係に行動していたわけではありません。
少なくとも一部の兵力が連携していたとする記録があるのです。
ただし、どの程度の兵力が加わり、どこまで具体的な作戦が共有されていたのかについては、慎重に考えなければなりません。
後世から見れば、義貞と顕家の軍勢が合流していれば、京都へ迫る大きな戦力になった可能性があります。
しかし、実際の二人は異なる地域で軍勢を率い、それぞれの状況に応じて行動していました。
一方が動けば、必ずもう一方が思いどおりに行動できるわけではありません。
この二つの軍勢の動きを追うと、広い地域にまたがる戦争を進めることの難しさが見えてきます。