新田義貞、敗北からの再起。金ヶ崎城を奪還し、越前で再び立ち上がった武士たち【3】
1338年2月、越前で再び戦いが動き出す
1338年2月。
杣山城を拠点としていた新田方と、足利方の斯波高経の軍勢との間で、大きな戦いが起こりました。
『太平記』によれば、脇屋義助の軍勢が今立郡鯖波宿へ偵察に出たところ、足利方の細川出羽守が攻撃を仕掛けました。
鯖波宿は、現在の福井県南越前町周辺にあたります。
越前の南部と北部を結ぶ交通路に関わる場所でした。
軍勢が移動するとき、街道や宿場は重要な意味を持ちます。
人や馬が通り、物資が運ばれる場所だからです。
敵の軍勢がどこにいるのか。
どれほどの兵力を持っているのか。
どの方向へ進もうとしているのか。
偵察は、そうした情報を集めるために行われます。
しかし、偵察に出た軍勢が敵と遭遇すれば、そのまま戦闘に発展することもあります。
鯖波宿で始まった戦いは、やがて双方の主力が加わる大きな戦闘へ発展しました。
この戦いは、金ヶ崎城を失って以来、苦しい状況が続いていた新田方にとって、大きな転機となります。
斯波高経が越前府中を離れた理由
鯖波宿周辺での戦いが拡大する中、足利方の斯波高経は越前府中を維持することができなくなりました。
『太平記』によれば、高経は府中を放棄して足羽郡方面へ退き、弟の斯波家兼も若狭へ逃れたとされています。
越前府中は、現在の福井県越前市周辺にあたる地域です。
古代から越前国の政治的な中心として発展し、中世にも交通や地域支配の上で重要な場所でした。
そこから斯波高経が退いたことは、単に一つの戦場で敗れたという意味にとどまりません。
越前における足利方の支配そのものが、大きく揺らいだことを示しています。
ただし、斯波高経が完全に力を失ったわけではありません。
足羽郡には、足利方が拠点とする城や、それを支える武士たちが残っていました。
高経は、より北の地域で軍勢を立て直しながら、新田方への抵抗を続けることになります。
一方、新田義貞にとっては、越前の中央部へ進出する道が開けました。
金ヶ崎城の落城後、守勢に追い込まれていた新田方が、今度は足利方を後退させる立場になったのです。
戦場の勝敗だけでは、支配する地域は決まらない
ここで考えたいのは、一度の戦いに勝つことと、その地域を安定して支配することは同じではないということです。
越前府中を足利方から奪ったとしても、周辺の武士たちがすべて新田方に従うわけではありません。
これまで斯波高経に従っていた武士もいます。
足利方から所領を与えられた者もいます。
一方、新田方を支持していたために土地を失った武士もいたでしょう。
勢力が変われば、土地の権利や人間関係にも影響が生じます。
中世の武士たちは、その変化の中で自分たちの立場を判断していました。
誰が領地を守ってくれるのか。
どの軍勢が近くにいるのか。
敵から攻撃されたとき、助けに来てくれるのか。
軍事的な勝利だけでなく、その後の対応が支持を左右したと考えられます。
新田義貞が再び勢力を広げるためには、敵を破るだけでなく、周辺の武士たちと協力関係を築き直す必要がありました。
その意味で、越前府中への進出は終着点ではありません。
新たな地域で軍勢をまとめ、足利方への攻撃を続けるための始まりでもあったのです。