新田義貞 鎌倉幕府を滅亡へ導いた十五日間。稲村ヶ崎の海は、なぜ道を開いたのか【2】
小手指原。最初の大きな戦い
義貞の軍勢が武蔵国へ進むと、幕府軍がその前に立ちはだかりました。
1333年5月11日。
現在の埼玉県所沢市周辺、小手指原で両軍が激突します。
幕府側も、義貞の挙兵を見過ごしていたわけではありません。
鎌倉へ続く道を守るために軍勢を送り、義貞の進軍を食い止めようとしていました。
小手指原は、鎌倉街道に関係する交通の要地でした。
武蔵国を南下する義貞の軍勢にとって、この付近を突破することには大きな意味がありました。
『太平記』では、両軍が激しく戦い、一日のうちに決着がつかなかった様子が描かれています。
義貞の軍勢は入間川方面へ退き、幕府軍も久米川方面へ移動したと伝えられています。
ここで興味深いのは、義貞が最初から幕府軍を圧倒していたわけではないということです。
幕府を倒すために進軍してきたとはいえ、実際の戦場では敵の抵抗を受け、思うように進めない場面もありました。
そして幕府軍にも、戦う理由がありました。
長年仕えてきた幕府を守るため。
自分たちの所領を守るため。
あるいは、幕府の命令によって出陣した武士もいたでしょう。
どちらの軍勢にも、家族や仲間がいました。
どちらにも、生きて故郷へ戻りたいと考える人々がいたはずです。
歴史の結末を知る私たちは、義貞の軍勢を幕府を倒す側として見ます。
しかし、この時点では、勝者も敗者もまだ決まっていませんでした。
久米川から分倍河原へ
翌5月12日、義貞の軍勢は久米川付近で幕府軍と戦いました。
幕府軍はさらに南へ退き、両軍の戦いは武蔵国府の近く、分倍河原へと移っていきます。
現在の東京都府中市周辺です。
分倍河原は、鎌倉街道の交通と深く関係する場所でした。
北から鎌倉へ進む義貞にとって、多摩川を越えて南へ向かうための重要な地域だったのです。
5月15日、義貞の軍勢は幕府軍と激突しました。
しかし、この戦いでは義貞側が苦境に立たされます。
幕府軍は軍勢を立て直し、義貞の進軍を押し返しました。
義貞は一度退却することになります。
もし、この時点で幕府軍が義貞の軍勢を完全に打ち破っていたら、その後の歴史は違っていたかもしれません。
義貞は、ここで何を考えたのでしょうか。
幕府軍の力を改めて認識したのでしょうか。
自分たちの軍勢に足りないものを考えたのでしょうか。
それとも、戦いを続けることで状況が変わる可能性を見いだしていたのでしょうか。
翌16日、義貞の軍勢は再び分倍河原で戦います。
このとき、周辺からの援軍が加わったことで形勢が変わり、義貞側が幕府軍を破ったと伝えられています。
援軍が加わることは、単に兵士の数が増えるというだけではありません。
味方の戦意が高まることもあります。
新たな軍勢が別の方向から攻撃することによって、敵の配置を変えさせることもできます。
そして、地元の道や地形を知る人々が加われば、軍勢の動き方にも違いが生まれる可能性があります。
義貞の戦いは、一人の武将が自分の力だけで勝ち続けたものではありませんでした。
戦況に応じて人々が集まり、それぞれの力を合わせることによって、次の道が開かれていったのです。