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新田義貞 鎌倉幕府を滅亡へ導いた十五日間。稲村ヶ崎の海は、なぜ道を開いたのか【1】

2015.05.21

1333年5月。

上野国新田荘で兵を挙げた新田義貞は、鎌倉を目指して南へ進んでいました。

『太平記』によれば、挙兵したときの軍勢は150騎ほど。

しかし、進軍するにつれて各地の武士たちが加わり、その勢力は次第に大きくなっていきます。

一方、鎌倉では北条氏を中心とする幕府の人々が、迫り来る義貞の軍勢を迎え撃とうとしていました。

鎌倉幕府が成立してから、およそ150年。

源頼朝が武家政権の拠点として選んだ鎌倉は、三方を山に囲まれ、南には相模湾が広がる、守りに適した土地でした。

しかし、長い年月をかけて築かれたその政治の中心へ、今、幕府に反旗を翻した武士たちが迫っていたのです。

義貞は、どうやって鎌倉へ攻め込もうとしたのでしょうか。

そして、鎌倉を守る側の人々は、何を考え、どのような準備をしていたのでしょう。

この戦いには、もう一つ、不思議な伝承が残されています。

稲村ヶ崎の海に向かい、義貞が黄金の太刀を投じて祈ったところ、潮が引き、軍勢の通れる道が現れたというのです。

海が道を開いた。

この話は、後世まで語り継がれてきました。

果たして、実際には何が起こったのでしょうか。

今回は、義貞の進軍をたどりながら、武蔵国での戦い、鎌倉の地形、稲村ヶ崎の伝承、そして幕府を守った人々の最後の時間について考えてみたいと思います。

生品神社を出発した軍勢

1333年5月8日。

義貞は、現在の群馬県太田市にある生品神社で挙兵したと伝えられています。

最初に集まった人数は決して多くありませんでした。

しかし、義貞はその軍勢を率い、鎌倉へ向かいました。

道中では新田一族や周辺の武士たちが加わっていきます。

ここで考えたいのは、なぜ人々が義貞のもとへ集まったのかということです。

鎌倉幕府は、長年にわたって東国の武士たちを統率してきました。

幕府のもとで所領を認められ、地域を治めてきた人々も少なくありません。

その幕府に敵対するということは、自分たちの立場や生活を危険にさらす選択でもありました。

では、義貞に加わった武士たちは、すでに幕府の滅亡を確信していたのでしょうか。

それとも、政治の変化を感じ取り、自分たちの未来を託す相手として義貞を選んだのでしょうか。

当時、河内では楠木正成が千早城で幕府軍の攻撃に耐えていました。

後醍醐天皇の倒幕運動も続いていました。

そして京都方面では、足利高氏が幕府に反旗を翻します。

各地で起こる出来事が、幕府を支える武士たちの判断にも影響を与えていた可能性があります。

義貞の軍勢が大きくなったことは、義貞個人の魅力や指導力だけでは説明できないでしょう。

新田氏が長年築いてきた人間関係。

幕府に対する不満。

新しい政治への期待。

そして、変わり始めた時代の流れ。

さまざまな事情が重なって、人々が義貞と行動をともにするようになったのではないでしょうか。

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