新田義貞、藤島の最期。なぜ歴戦の武将は、わずか五十騎で死地へ向かったのか【6】
況を有利に進めていました。
しかし、藤島城の攻防を確認するために、少数の兵で移動しました。
その途中、足利方の軍勢と遭遇しました。
そして、義貞は命を落としました。
この出来事は、偶然の遭遇戦として説明することができます。
しかし、偶然だったと断定できるほど、当時の軍勢の動きを詳しく把握できているわけでもありません。
義貞の移動について、足利方が何らかの情報を得ていた可能性はあるのでしょうか。
藤島城の攻防が長引いたことで、義貞が自ら視察に来ることを予想できたのでしょうか。
あるいは、足利方が夜襲を目的として動いていたため、双方の軍勢が予期せず同じ場所へ進んだのでしょうか。
現存する記録から、待ち伏せや計画的な暗殺があったと判断する根拠は確認できません。
一方、義貞の行動を事前に知らなかったと証明することも困難です。
重要なのは、可能性があるということと、実際にそうだったと認められることを混同しないことです。
疑問が残っているからといって、その空白に都合のよい物語を当てはめる必要はありません。
分からない部分が残ることも、歴史の実際の姿なのだと思います。
一人の死によって、歴史はどれほど変わったのか
新田義貞が戦死したとき、足利方にとっては大きな転機となりました。
越前で勢力を回復していた敵の中心人物が、突然いなくなったのです。
義貞がそのまま生き続けていたら、北陸の戦況はどうなっていたのでしょうか。
越後から進む武士たちとの連携は、さらに進んだのでしょうか。
足利方の黒丸城や藤島城は、攻略されていたのでしょうか。
そして、義貞が北陸から京都へ進む可能性はあったのでしょうか。
これらは興味深い問いですが、実際には起こらなかった未来です。
義貞が生き続けていれば必ず勝利したということも、足利尊氏を倒せたということも、証明できません。
ただし、義貞の死が当時の戦況に大きな影響を与えたことは確かです。
一方、義貞がいなくなっても、新田方の抵抗は終わりませんでした。
弟の脇屋義助が軍事活動を引き継ぎ、各地の武士たちも戦い続けます。
新田一族の歴史は、義貞一人の生涯で完結するものではなかったのです。
ここにも、人々が運命を共にしながら生きていた中世の社会が見えてきます。
一人の武将が中心となって軍勢をまとめていても、その周囲には多くの人々がいます。
中心人物が失われたとき、そこで活動を終える者もいれば、別の指導者のもとで戦いを続ける者もいます。
人々が選んだ道は、一つではありませんでした。