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北畠顕家とその一族【第6回】

2015.08.14

多賀城から霊山へ

奥州の政権は、なぜ拠点を移さなければならなかったのか

1337年1月8日。

北畠顕家と義良親王は、奥州の政治拠点を多賀城から霊山へ移したと伝えられています。

霊山は、現在の福島県伊達市と相馬市にまたがる山岳地帯にあります。

標高約825メートル。

険しい岩場と山々に囲まれたこの土地には、かつて大規模な山岳寺院が存在していました。

1333年、京都から奥州へ下った顕家たちは、多賀城を拠点として新しい統治体制を築こうとしていました。

それからわずか三年余り。

なぜ、朝廷の権威を背景に成立した奥州の政権は、山深い霊山へ移らなければならなかったのでしょうか。

そこには、足利尊氏との戦いだけでなく、奥州の武士たちの勢力関係、交通路、軍事上の判断が深く関わっていました。

多賀城で始まった新しい政治

1333年、後醍醐天皇は鎌倉幕府の滅亡を受けて、全国の統治体制を整えようとしました。

その一環として、皇子の義良親王と北畠顕家らを奥州へ派遣します。

顕家は陸奥守として政務を担当し、父・親房や奥州の武士たちとともに、新しい政治体制を築いていきました。

奥州の統治では、土地の権利に関する裁判や武士たちへの恩賞など、現実的な問題に対応する必要がありました。

旧幕府の支配体制が崩れた後、誰がどの土地を支配するのか。

新政権に協力した武士たちへ、どのように報いるのか。

それまで幕府に従っていた人々を、どのように新しい秩序へ組み込むのか。

顕家たちの仕事は、単に朝廷の命令を伝えることではありませんでした。

異なる立場の人々をまとめながら、地域の秩序を維持することだったのです。

しかし、その取り組みが十分に安定する前に、中央の政治情勢が大きく変化します。

足利尊氏の離反が奥州を変えた

1335年、鎌倉で北条氏の残党による中先代の乱が起こりました。

足利尊氏は反乱を鎮圧するため関東へ向かい、鎌倉を奪還します。

しかし、その後、尊氏は後醍醐天皇の政権と対立する道を進みました。

この対立は、京都や鎌倉だけの問題ではありませんでした。

足利氏は全国各地の武士たちと関係を持っていました。

奥州にも足利方に加わる勢力がありました。

昨日まで新政権の下で生活していた武士たちが、今度はどちらに味方するのかを迫られることになります。

その中で顕家は、後醍醐天皇の命令を受け、奥州から軍勢を率いて京都方面へ向かいました。

第一次西上です。

顕家の軍勢は、1336年初めの戦いで尊氏方を破ることに貢献しました。

しかし、尊氏は九州で勢力を立て直し、再び東上します。

京都をめぐる戦いは続き、建武政権は崩壊へと向かいました。

顕家が奥州へ戻った後

第一次西上を終えた顕家は、奥州へ戻りました。

しかし、帰還した奥州は、以前と同じ状態ではありませんでした。

中央で足利尊氏の勢力が拡大すると、奥州でも足利方の活動が活発になります。

その中心人物の一人が、斯波家長(しば いえなが)です。

家長は足利方の有力武将として、奥州や関東の政治・軍事に関わりました。

顕家が一度京都方面へ遠征している間にも、奥州の勢力関係は変化していました。

多賀城を拠点とした統治体制を、そのまま維持することが次第に難しくなっていったのです。

ここで重要なのは、奥州のすべての武士が一斉に顕家から離れたわけではないということです。

結城宗広や伊達行朝など、引き続き顕家を支える勢力も存在しました。

一方で、足利方に協力する武士たちもいました。

地域ごとに異なる立場が存在し、従来の政治的な関係が戦乱によって組み替えられていきました。

顕家にとって、それは軍事的な問題であると同時に、統治の基盤そのものに関わる問題でした。

なぜ霊山だったのか

1337年、顕家たちは霊山へ拠点を移しました。

この移転を考えるうえで、まず注目したいのが地形です。

霊山は山頂付近に岩場や険しい斜面が広がる山です。

平地に位置する多賀城周辺とは、守備の条件が大きく異なります。

敵が接近する経路を制限しやすく、山岳地形そのものを防御に利用できます。

ただし、険しい山だからといって、必ず安全とは限りません。

山中では多くの人員や物資を維持することも難しくなります。

水、食料、馬の飼料、武器の補給。

長期間拠点を維持するには、周辺地域との連絡が不可欠です。

霊山への移転には、防御上の利点とともに、周囲の協力勢力の存在が関係していたと考えられます。

伊達氏と霊山寺の存在

霊山が選ばれた理由を考えるうえで、伊達氏の存在は重要です。

伊達行朝は、顕家を支える有力武士の一人でした。

霊山は伊達氏の勢力圏と関係の深い地域に位置しています。

そのため、顕家たちは多賀城周辺よりも、協力勢力の支援を受けやすい場所へ移動したと考えられます。

さらに、霊山には古くから山岳寺院が存在していました。

霊山寺です。

伝承では慈覚大師円仁による開山とされ、かつて多数の坊舎を擁したと伝えられています。

ただし、寺院の規模について伝わる数字を、そのまま14世紀当時の実態とみなすことはできません。

重要なのは、霊山が単なる人里離れた岩山ではなかったという点です。

宗教施設があり、周辺地域とのつながりがあり、人々が活動してきた歴史のある場所でした。

そこに政治・軍事の拠点を移すことは、地形だけでなく、地域の人的・物的な基盤を利用する選択でもあったと考えられます。

山の上で政治は続けられたのか

霊山へ移った後も、顕家たちは奥州での政治的な役割を放棄したわけではありません。

義良親王を奉じ、足利方に対抗する勢力を維持しようとしました。

しかし、多賀城時代と同じように政務を行えていたかどうかは、慎重に検討する必要があります。

山岳拠点での生活には制約があります。

政治文書の作成や使者の往来、各地の武士との連絡を続けるには、多くの人々の協力が必要です。

また、家臣や兵士だけでなく、親王を支える人々もいました。

霊山へ移ったのは顕家一人ではありません。

一つの政治勢力が、生活と活動の基盤を移したのです。

そこで何人が暮らし、どのように食料を確保し、どの施設を利用していたのか。

こうした問題をすべて明らかにできる史料が残っているわけではありません。

しかし、政治拠点を移すという判断が、多くの人々に影響を与えたことは確かでしょう。

守るための移転だったのか、攻めるための準備だったのか

霊山への移転について、もう一つ考えたい問題があります。

それは、この移転が単なる退避だったのかということです。

確かに、多賀城周辺で足利方の圧力が強まり、従来の拠点を維持することが難しくなっていました。

しかし、霊山へ移った顕家は、そのまま守勢に徹したわけではありません。

同じ1337年、顕家は再び奥州から西へ向かうことになります。

第二次西上です。

霊山は防御拠点であると同時に、奥州南部の協力勢力と連絡を取り、次の軍事行動を準備する場所でもあった可能性があります。

ただし、移転の時点で第二次西上まで具体的に計画されていたかどうかは、史料による確認が必要です。

後から起きた出来事を理由に、当初からすべてが計画されていたと決めつけることはできません。

それでも、霊山への移転と第二次西上が同じ年に起きていることは、両者の関係を検討する重要な手がかりになります。

多賀城と霊山に残されたもの

現在、多賀城には古代の国府としての遺構が残されています。

一方、霊山には中世の山岳拠点に関わる遺構や、北畠顕家にまつわる歴史が伝えられています。

両者を訪ねると、その立地条件の違いが際立ちます。

多賀城は古代国家の地方統治を象徴する場所です。

霊山は、山岳地形を利用した防御と抵抗の拠点として知られています。

しかし、現在目にする遺構のすべてが顕家の時代に属するわけではありません。

古代の施設、中世の遺構、後世の記念物や伝承を区別して考える必要があります。

土地の歴史は、一つの時代だけで完成するものではないからです。

顕家が失ったもの、守ろうとしたもの

1333年、16歳の顕家は、新しい政治を実現するため奥州へ向かいました。

1337年、20歳となった顕家は、足利方の圧力が強まる中で、政治拠点を霊山へ移しました。

わずか数年間で、顕家の置かれた状況は大きく変わっていました。

新政権の地方統治を担う立場から、戦乱の中で拠点を守り抜かなければならない立場へ。

その変化は、顕家だけでなく、彼を支える武士たちにも及んでいました。

彼らは一度築いた関係を維持しながら、新たな戦いに備えなければなりませんでした。

多賀城から霊山への移転は、単なる場所の変更ではありません。

北畠顕家の奥州統治が、重大な転換点を迎えた出来事だったのです。

次回は「第一次西上、奥州軍の進撃」。

時代を1335年へ戻し、顕家が初めて大軍を率いて京都方面へ向かった遠征を詳しく追います。

なぜ奥州から遠征する必要があったのか。

その軍勢は、どのように集められたのか。

そして、遠く離れた戦場へ向かう人々を、何が支えていたのでしょうか。

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