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北畠顕家とその一族【第7回】

2015.08.15

第一次西上、奥州軍の進撃

なぜ遠い奥州から大軍を率いて京都を目指したのか

1335年、北畠顕家の人生を大きく変える出来事が起こりました。

足利尊氏が、後醍醐天皇の政権と対立するようになったのです。

鎌倉幕府の滅亡に貢献した尊氏は、建武政権の中でも重要な立場にありました。

しかし、鎌倉で中先代の乱を鎮圧した後、尊氏と朝廷の対立は深刻になります。

尊氏は西へ軍勢を進め、京都をめぐる戦いが始まりました。

これに対して後醍醐天皇は、各地の武士たちに尊氏討伐を命じます。

遠く奥州にいた北畠顕家にも、その命令が届きました。

顕家は義良親王を奉じ、奥州の武士たちを率いて西へ向かいます。

まだ18歳。

京都の公家として育った青年が、長距離遠征軍の指揮官となったのです。

尊氏はなぜ後醍醐天皇と対立したのか

1333年、足利尊氏は鎌倉幕府を倒す側に立っていました。

新田義貞と足利尊氏は、ともに幕府滅亡に大きく関わった人物です。

しかし、幕府が滅亡した後、二人は異なる立場へ進むことになります。

後醍醐天皇が目指した政治と、尊氏が武士たちの間で築こうとした秩序には、対立する部分がありました。

当時の武士たちにとって、領地の保障や軍功に対する恩賞は重要でした。

一方、新しい朝廷の政治では、従来の武家社会の慣習とは異なる判断が行われることもありました。

ただし、尊氏の離反を恩賞への不満だけで説明することはできません。

足利氏の家格や軍事的な影響力、鎌倉の支配、朝廷内の対立など、複数の問題が重なっていました。

尊氏にも、尊氏を支持する武士たちにも、それぞれの判断がありました。

後醍醐天皇の側から見れば、尊氏の行動は新政権に対する重大な反抗でした。

尊氏の側から見れば、自らの勢力と武士たちの立場を守るための判断だった可能性があります。

双方の考えが対立する中で、戦いは避けられなくなっていきました。

奥州軍はどのように集められたのか

顕家が西上を命じられたとき、奥州には多くの武士団が存在していました。

しかし、彼らが全員同じ理由で出陣したわけではありません。

結城宗広や伊達行朝をはじめ、顕家を支える有力武士たちは、それぞれの領地と家臣を持っていました。

彼らが出陣するには、兵を集め、馬を用意し、武器や食料を整えなければなりません。

さらに、遠征中に領地を守る人々も必要です。

一族全員が戦場へ出れば、故郷の守備が手薄になります。

反対に、十分な兵を出さなければ、遠征軍の戦力は不足します。

どの程度の兵を送り、誰を本拠地に残すのか。

それぞれの武士団が、現実的な判断を迫られていたと考えられます。

顕家の軍勢は、軍記物などで数万の大軍として描かれています。

しかし、その数字をそのまま実際の兵員数とみなすことはできません。

中世の軍記物には、戦いの規模や人物の活躍を強調する表現が含まれることがあります。

実際の兵力を知るには、動員文書、軍忠状、参加した武士団の規模などを照合する必要があります。

奥州から京都へ向かうということ

現在の交通機関を利用すれば、東北地方から京都まで比較的短時間で移動できます。

しかし、14世紀の遠征はまったく異なります。

兵士たちは自ら歩き、騎馬の武士たちは馬を連れ、武器や物資を運びながら進軍しました。

奥州から関東を経て、東海道方面を西へ向かう長い行程です。

軍勢の移動には、道路や渡河地点の状態が影響します。

川が増水すれば渡ることが難しくなります。

馬が疲れれば移動速度が落ちます。

食料が不足すれば、軍勢を維持できません。

そして、進軍先が必ずしも味方の土地とは限りませんでした。

途中で足利方に属する武士たちと遭遇する可能性もあります。

遠征軍を率いるとは、戦場で戦うことだけではありません。

目的地へ到達するまで、軍勢を維持し続けることでもありました。

誰が食料を用意したのか

第一次西上を考えるうえで、特に重要なのが兵站です。

食料、馬の飼料、武器、宿営地。

こうしたものを、長距離の進軍中にどのように確保したのでしょうか。

顕家の遠征について、補給の全体像を詳細に示す記録が残っているわけではありません。

そのため、現代の軍隊の補給制度をそのまま当てはめることはできません。

当時の軍勢は、参加した武士たちがそれぞれ必要な物資を持参する場合もあり、進軍先の協力勢力から支援を受けることもありました。

一方、軍勢の通過が地域の人々に負担を与えることもありました。

大勢の兵士と馬が移動すれば、食料や飼料の需要は急激に増えます。

必要な物資を十分に確保できない場合、住民の生活に影響が及ぶ可能性もあります。

顕家の遠征を、勇壮な軍事行動だけで描くことはできません。

その進軍を支えるため、多くの人々が働き、負担を担っていたと考える必要があります。

鎌倉を越え、京都を目指す

1335年末、顕家の軍勢は奥州から西へ向かいました。

尊氏方はすでに京都方面へ進んでおり、建武政権は危機に直面していました。

顕家の軍勢は関東を通過し、さらに西へ向かいます。

この進軍では、奥州からの軍勢だけでなく、途中で協力する武士たちの存在も重要だったと考えられます。

遠征軍の指揮系統や各地での具体的な合流状況については、史料ごとの記載を検討する必要があります。

しかし、顕家が短期間で京都方面へ進んだことは、奥州の統治を通して築いた軍事的な基盤が、広域の戦いに利用されたことを示しています。

それでも、一つの疑問が残ります。

顕家は、最初からこのような遠征を想定して奥州を統治していたのでしょうか。

それとも、尊氏の離反という予期しなかった事態によって、初めて遠征を決断したのでしょうか。

後醍醐天皇による奥州への皇子派遣には東国を統治する政治的な目的がありました。

しかし、1335年の遠征が当初から予定された計画だったと断定することはできません。

情勢の変化が、奥州の政権に新たな軍事的役割を求めたと考える方が慎重でしょう。

若い顕家を支えた経験豊富な武士たち

当時の顕家は18歳でした。

しかし、軍勢に参加していた武士たちは、顕家と同じ年齢ではありません。

結城宗広をはじめ、長年にわたり地域で勢力を維持してきた人物がいました。

彼らは一族を率い、土地を守り、周辺勢力との関係を築いてきた経験を持っていました。

顕家が大軍を率いたからといって、すべての作戦を一人で立案し、すべての兵士を直接動かしていたと考える必要はありません。

各武士団の指揮官が、それぞれの兵を率いていました。

顕家は、その上に立つ政治的・軍事的な指揮官でした。

では、18歳の顕家は、経験豊富な武士たちとどのように関係を築いていたのでしょうか。

皇子を奉じる立場と、陸奥守としての権限。

朝廷による正式な任命。

そして、奥州での政治経験。

これらが指揮権の基盤となっていたことは考えられます。

一方、個々の武士たちが顕家本人をどのように評価していたのかは、別の問題です。

顕家への個人的な信頼と、朝廷への政治的な忠誠を、同じものとして扱うことはできません。

奥州に残された人々

顕家が西へ向かった後も、奥州では人々の生活が続いていました。

軍勢を送り出した一族には、領地を守る役割が残されます。

奥州のすべての武士が遠征に参加したわけではありません。

南部師行のように、現地の防備や統治に関わった人物もいました。

もし足利方の勢力が奥州で活動を強めれば、残された人々が対応しなければなりません。

遠征軍が勝利して帰還するとは限りません。

家族や家臣を送り出した人々は、その結果が分からないまま日々を過ごしていたでしょう。

ただし、彼らの個人的な感情を具体的に記録した史料は限られています。

何を思い、どのような会話を交わしたのかは分かりません。

それでも、遠征は出陣した人々だけの出来事ではなかったことを忘れてはならないと思います。

第一次西上が持っていた意味

北畠顕家の第一次西上は、建武政権にとって重要な軍事行動でした。

顕家軍は新田義貞や楠木正成らとともに足利尊氏方と戦い、1336年初めには尊氏を京都から退かせることに貢献しました。

しかし、遠征の成功がそのまま政権の安定につながったわけではありません。

尊氏は九州へ向かい、そこで再び勢力を集めます。

一方、奥州でも足利方の活動が続き、顕家の統治基盤は次第に不安定になっていきました。

戦場で勝つことと、戦争そのものを終わらせることは違います。

顕家の第一次西上は、そのことを示す出来事でもありました。

奥州から遠征するために築かれた協力関係は、勝利の後も維持し続けなければなりません。

顕家は京都方面で戦いながら、遠く奥州の将来にも責任を負っていたのです。

次回は「足利尊氏との対決」。

1336年、顕家、新田義貞、楠木正成らは、尊氏を九州へ退かせることに成功しました。

それにもかかわらず、なぜ尊氏は再び勢力を盛り返すことができたのでしょうか。

尊氏の側からも戦いを見つめ、勝利と敗北の意味を考えます。

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