北畠顕家とその一族【第8回】
足利尊氏との対決
京都を奪還しても、なぜ戦いは終わらなかったのか
1336年初め、後醍醐天皇の政権は重大な危機に直面していました。
足利尊氏が京都へ進出し、朝廷の軍勢と激しい戦いを繰り広げていたのです。
この危機に対して、奥州から西上してきた北畠顕家が戦いに加わりました。
顕家は新田義貞、楠木正成らとともに尊氏方と戦い、尊氏を京都から退かせることに貢献します。
尊氏は九州へ向かいました。
一見すると、後醍醐天皇側の大きな勝利でした。
しかし、わずか数か月後、尊氏は勢力を立て直して再び京都へ進みます。
そして戦局は逆転しました。
なぜ、一度は敗れて九州へ退いた尊氏が、再び強大な軍勢を率いることができたのでしょうか。
この問いを考えるには、顕家の勝利だけでなく、尊氏の立場と、尊氏を支えた武士たちにも目を向ける必要があります。
かつては同じ側で戦った人々
足利尊氏、新田義貞、北畠顕家。
この三人は、最初から敵同士だったわけではありません。
1333年、鎌倉幕府が滅亡したとき、尊氏と義貞は幕府を倒す側に立っていました。
顕家もまた、建武政権を支える公卿として奥州へ派遣されます。
三人は、それぞれ異なる役割を担いながら、後醍醐天皇による新しい政治体制に関わっていました。
ところが1335年、尊氏が政権から離反します。
尊氏と義貞の対立は軍事的な争いへ発展し、顕家も尊氏討伐のため奥州から西上することになりました。
ここで重要なのは、尊氏を単なる反逆者として描くだけでは、当時の政治情勢を十分に理解できないということです。
尊氏には尊氏を支持する武士たちがいました。
義貞には義貞を支持する武士たちがいました。
顕家にも奥州で築いた協力関係がありました。
それぞれの立場の背後には、多くの一族や家臣たちが存在していたのです。
京都をめぐる攻防
1336年初め、尊氏の軍勢と後醍醐天皇側の軍勢は、京都とその周辺で戦いました。
顕家は奥州から駆けつけ、新田義貞らと協力して戦います。
尊氏方は一度京都から退きましたが、再び進出を試みました。
戦いは摂津方面へも広がります。
この戦いでは、楠木正成らも後醍醐天皇側の軍勢として活動していました。
ただし、顕家、義貞、正成が常に同じ場所で行動していたわけではありません。
各地で複数の軍勢が動き、足利方との戦闘が続いていました。
彼らの行動を検討するときには、誰が、いつ、どこで戦っていたのかを区別する必要があります。
最終的に尊氏は畿内から退き、九州へ向かいます。
建武政権側にとっては、大きな軍事的成果でした。
しかし、尊氏の軍勢が完全に消滅したわけではありませんでした。
尊氏はなぜ九州を選んだのか
尊氏が九州へ向かった理由を考えるとき、九州に存在した武士たちとの関係が重要になります。
九州には鎌倉時代以来の有力武士団が存在し、足利氏と関係を持つ勢力もいました。
一方、九州のすべての武士が尊氏を支持したわけではありません。
菊池氏など、後醍醐天皇側に立つ勢力も存在しました。
尊氏は九州で軍事的な抵抗に直面しながら、支持勢力を集めていきました。
1336年、多々良浜の戦いなどを経て、尊氏は九州における立場を強めます。
敗北した指揮官が再び軍勢を集めるには、本人の決意だけでは足りません。
兵を出す武士たちが必要です。
食料や馬を提供する地域も必要です。
そして、尊氏を支持することが自分たちの将来につながると判断する人々が必要でした。
尊氏の再起は、足利氏を支持した武士たちの存在なしには説明できないのです。
武士たちは何を期待していたのか
足利尊氏に従った武士たちは、必ずしも同じ政治思想を持っていたわけではありません。
自らの所領を守ろうとする者。
新たな恩賞を期待する者。
従来から足利氏と関係を持っていた者。
地域で対立する別の武士団に対抗しようとする者。
それぞれに事情があったと考えられます。
しかし、こうした動機を個々の人物について断定するには、具体的な史料が必要です。
ある武士が尊氏側に立ったという事実だけで、その人物の心情まですべて分かるわけではありません。
ここで注目したいのは、建武政権が尊氏を軍事的に破っても、尊氏を支持する政治的な基盤まで消すことはできなかったという点です。
戦いに勝つことと、相手を支持する人々の考えを変えることは違います。
この問題は、顕家たちが直面した大きな難しさだったのでしょう。
再び京都へ向かう尊氏
九州で勢力を立て直した尊氏は、再び東上を開始します。
このとき尊氏は、自らの軍事力だけでなく、持明院統の光厳上皇からの院宣という政治的な権威も得ていました。
後醍醐天皇の側が朝廷の正統な権威を主張していたのに対し、尊氏側も皇統の権威を利用して軍事行動を正当化しようとしたのです。
ここで戦いは、単なる武士同士の争いを超えていきます。
どちらが正統な政治的権威を持つのかという問題が、軍事的な対立と結びつき始めていました。
1336年5月、現在の兵庫県神戸市周辺で湊川の戦いが起こります。
後醍醐天皇側の楠木正成は、この戦いで命を落としました。
新田義貞も尊氏方と戦いましたが、尊氏の東上を止めることはできませんでした。
そして尊氏は京都を掌握していきます。
楠木正成の死が意味したもの
湊川の戦いで楠木正成が戦死したことは、建武政権側にとって大きな損失でした。
正成は、鎌倉幕府との戦いでも重要な役割を果たした武将です。
地形を利用した戦いや、限られた兵力での抵抗によって知られています。
しかし、正成の死を一人の英雄の悲劇として描くだけでは不十分です。
正成の周囲には、楠木一族や家臣たちがいました。
戦場で失われたのは、正成個人の命だけではありません。
長年にわたって築かれてきた軍事的な基盤にも、大きな影響が及んだと考えられます。
また、正成の死によって、後醍醐天皇側の軍勢がすべて消滅したわけでもありません。
義貞は戦い続け、顕家も奥州で勢力を維持しようとしていました。
それぞれが異なる地域に分かれながら、足利方に対抗していくことになります。
顕家はなぜ奥州へ戻っていたのか
尊氏が九州で再起していた頃、顕家はすでに奥州へ帰還していました。
第一次西上で軍事的な成果を挙げた顕家でしたが、奥州での統治という本来の役割も残されていました。
もし顕家が京都方面にとどまり続ければ、奥州の政治や軍事はどうなるのでしょうか。
奥州には足利方に協力する勢力も存在していました。
遠征によって多くの武士が本拠地を離れれば、地域の勢力関係にも影響が生じます。
帰還は、奥州の統治を維持するために必要な判断だったと考えられます。
ただし、顕家が帰還した具体的な判断過程については、任務や軍事情勢を示す史料から検討する必要があります。
後から見て「京都に残っていれば尊氏を防げた」と考えることは簡単です。
しかし、その判断が当時の状況で現実的だったかどうかは別の問題です。
顕家には、奥州に残された人々への責任もありました。
戦場での勝利が政権の安定につながらない理由
1336年初め、顕家たちは尊氏を九州へ退かせることに成功しました。
しかし、その勝利は決定的なものにはなりませんでした。
なぜでしょうか。
まず、尊氏を支持する武士たちの勢力が残っていました。
さらに、全国各地の武士たちは、必ずしも後醍醐天皇側にまとまっていませんでした。
そして、京都を奪還したとしても、全国の土地支配や政治的な不満が解決したわけではありません。
一度の戦いで勝利しても、その後の政治を安定させるには、別の取り組みが必要になります。
このことは、足利尊氏にも北畠顕家にも共通する問題でした。
尊氏が九州で勢力を再建できた背景には、軍事的な能力だけでなく、支持する武士たちの存在がありました。
顕家が奥州で政権を維持するためにも、同じように地域の武士たちの協力が必要でした。
戦争の行方は、戦場における指揮官同士の能力だけで決まっていたわけではなかったのです。
敵対した二人に共通していたもの
北畠顕家と足利尊氏は、政治的には敵対する立場にありました。
顕家は後醍醐天皇を支え、尊氏は後醍醐天皇の政権から離れて新たな武家政権を築こうとしました。
しかし、二人には共通する問題がありました。
どのように人々をまとめるのか。
協力する武士たちの期待に、どう応えるのか。
軍事的な勝利を、どう政治的な安定につなげるのか。
尊氏が支持を広げていったことも、顕家が奥州から遠征できたことも、多くの人々の協力によって初めて可能になったものでした。
二人の違いを考えるとき、本人の性格だけでなく、置かれた政治的な立場にも注目する必要があります。
顕家は朝廷から任命された地方統治の責任者でした。
尊氏は、武士たちとの関係を背景に新たな政治的秩序を形成しようとしていました。
その違いが、後の戦いに大きな影響を与えていくことになります。
1336年、時代が大きく変わる
1336年、足利尊氏は京都を掌握しました。
後醍醐天皇は最終的に吉野へ移り、南朝の歴史が始まります。
一方、京都では光明天皇が即位し、足利尊氏を支える北朝が成立していきます。
南北朝時代です。
顕家が奥州へ下った1333年には、まだこのような対立が確定していたわけではありません。
新しい政治体制を築こうとしていた人々が、わずか数年間で国家的な分裂に直面することになったのです。
奥州に戻った顕家にも、その影響が及びました。
京都で尊氏が勢力を確立したことによって、奥州でも足利方の活動が活発になります。
多賀城を中心とした政権は、次第に維持が難しくなっていきました。
そして1337年、顕家たちは霊山へ拠点を移します。
第一次西上での勝利は、奥州の安定を保証するものにはならなかったのです。
次回は「奥州への帰還と新たな危機」。
尊氏との戦いを終えて奥州へ戻った顕家は、どのような現実に直面したのでしょうか。
第一次西上の勝利から第二次西上の決断まで、その間に起きた変化を追います。