倭国大乱と青谷上寺地遺跡――土の中に残された争いの記憶
倭国大乱と青谷上寺地遺跡――土の中に残された争いの記憶
――約1800年前、豊かな日本海の港で何が起きたのか
鳥取県鳥取市青谷町。
日本海に面したこの地域で、道路建設に伴う発掘調査が行われました。
そこで見つかったのは、古代の集落跡でした。
建物の柱、水田、木製品、鉄器、青銅器。
豊かな暮らしと、優れたものづくりを伝える品々です。
ところが、発掘が進むにつれて、驚くべきものが現れました。
人間の骨です。
しかも、一人や二人ではありません。
約5,300点、少なくとも109人分に相当する大量の人骨が、集落を囲む溝から見つかったのです。
さらに調査によって、鋭利な刃物で傷つけられた骨や、武器によって命を奪われたことを示す痕跡が確認されました。
女性や子どもの骨も含まれていました。
いったい、ここで何があったのでしょうか。
なぜ、これほど多くの人々の骨が、同じ場所に残されていたのでしょうか。
その答えを探していくと、約1800年前の日本列島で起きた、大きな歴史の転換点が見えてきます。
そこは、豊かな交易の拠点だった
青谷上寺地遺跡は、単なる小さな農村ではありませんでした。
現在の地形とは異なり、当時は近くに潟湖が広がり、日本海へつながる水上交通を利用できる環境でした。
遺跡の中心部には微高地があり、周囲には大きな溝が巡らされていました。
溝の側面には杭や板を使った護岸施設が設けられ、埋まるたびに修復されていました。
人々が長い年月をかけて、生活と生産の拠点を維持していたことが分かります。
出土した木製品には、精巧な装飾を施したものもあります。
鉄器や青銅器のほか、玉作りに関わる道具も見つかっています。
北陸の石材を利用した加工品や、大陸との交流を考えるうえで重要な遺物も残されています。
越、出雲、北部九州、そして海の向こうの大陸。
青谷の人々は、こうした地域とつながる日本海の交流圏の中で暮らしていたのです。
豊かな物資が行き交い、職人が技術を磨き、人々が集まる場所。
それが、青谷上寺地遺跡のもう一つの姿でした。
しかし、その豊かな土地に、なぜ大量の人骨が残されたのでしょうか。
人骨に残されていた、争いの痕跡
青谷の人骨が注目された理由は、数の多さだけではありません。
鋭利な刃物による傷が残る骨がありました。
頭部や身体を武器で傷つけられた人々がいたのです。
これは、人間同士の争いを考えるうえで、極めて重要な発見です。
しかも、溝の中には大量の骨が散乱していました。
通常の墓に、一人ずつ丁寧に葬られた状態とは違っています。
そのため、いったん埋葬された遺体が後に移されたという見方も研究されています。
ただし、遺骨がどのような経緯で集められたとしても、武器によって傷つけられた人々がいたことは変わりません。
平和な日常を送っていたはずの人々の暮らしに、激しい争いが入り込んでいたのです。
そして、ここで時代を確認してみると、さらに興味深い事実に突き当たります。
中国の歴史書に残された「倭国大乱」
青谷の人骨が見つかった溝は、2世紀頃に埋まったものとされています。
同じ頃、日本列島では何が起きていたのでしょうか。
中国の歴史書『後漢書』には、後漢の桓帝・霊帝の時代に倭国が大いに乱れ、互いに攻め合い、長い間、統一的な指導者がいなかったという記録があります。
一般に「倭国大乱」と呼ばれる出来事です。
その時期は、2世紀後半頃と考えられています。
さらに『魏志倭人伝』には、倭国が長年争いを続けた後、人々が一人の女性を共通の王として立てたと記されています。
その女性が卑弥呼です。
ここで、気になることがあります。
青谷で人々が殺傷された時代と、中国の歴史書が倭国の争乱を伝える時代が、おおむね重なっているのです。
青谷の人骨には、2世紀後半より古い可能性を示す年代測定結果もあります。
それでも、弥生時代後期の日本海沿岸で、争いによって傷ついた人々がいたことは、大きな意味を持っています。
では、倭国大乱とは、どのような争いだったのでしょうか。
なぜ、長い争いが続いたのか
縄文時代から、人々は各地に集落を築き、交易や婚姻を通じて交流していました。
海の民は魚介類を得る。
山の民は森林や鉱物を利用する。
平野では農耕が行われ、余剰の食料を交換する。
人々は、土地ごとの自然環境に合わせて暮らしていました。
しかし、人口が増え、集落が大きくなれば、社会の仕組みも変化していきます。
農地や水を管理する必要が生じます。
遠方との交易を取りまとめる人物も現れます。
そして、複数の集落を代表する有力者が力を持つようになります。
各地の大きな墳丘墓は、そうした有力者の存在を考える重要な手がかりです。
出雲の西谷墳墓群。
吉備の楯築墳丘墓。
越の小羽山30号墓。
いずれも、大和で纒向が発展する以前から、有力な地域社会が存在していたことを示しています。
ここで、一つの疑問が生まれます。
もともと交易し、助け合っていた人々の間で、なぜ広い範囲に及ぶ争いが起きたのでしょうか。
食料や土地をめぐる対立だったのでしょうか。
交易の主導権を握ろうとする争いだったのでしょうか。
それとも、各地の有力者の間で政治的な主導権をめぐる対立が生まれたのでしょうか。
倭国大乱という記録を、単なる戦争の名前として片づけることはできません。
その背後には、人々の暮らし方や地域同士の関係が大きく変わっていく歴史があったはずです。
32人のDNAが示した、もう一つの驚き
青谷上寺地遺跡では、人骨のDNA分析も行われています。
分析結果が得られた32人のミトコンドリアDNAには、29系統もの違いが認められました。
また、その多くに、渡来系と分類される母系の特徴が確認されています。
ここから分かるのは、青谷に関わった人々の祖先が、決して一つの狭い地域だけに由来していたわけではないということです。
古代の日本海沿岸には、大陸との交流を通じて移り住んだ人々や、その子孫が暮らしていました。
彼らは交易やものづくり、農耕など、さまざまな営みに関わっていたのでしょう。
ところが、そのような交流の拠点で、多くの人々が傷つけられる出来事が起きていました。
交流によって人々が集まることと、争いが起きることは、同じ社会の中で起こり得たのです。
そして、ここから考えるべきなのは、人々の出自だけではありません。
何が対立を生み、どのような争いに発展したのか。
古代の地域社会を理解するには、暮らしと交易、そして政治的な変化を一緒に見ていく必要があります。
争いの時代にも、交流は続いていた
ここで、視線を青谷から周囲の地域へ広げてみます。
2世紀後半頃、出雲では大型の四隅突出型墳丘墓が築かれていました。
西谷3号墓からは、吉備や丹後など、遠く離れた地域との交流を示す土器が出土しています。
吉備では巨大な楯築墳丘墓が築かれ、特別な葬送儀礼が行われていました。
丹後では、赤坂今井墳墓のような有力者の墓が現れます。
越にも、独自の葬送文化を持つ有力な地域社会が存在していました。
つまり、倭国大乱と呼ばれる時代にも、人々の交流が完全に途絶えたわけではありません。
争いが起きる一方で、交易や祭祀、婚姻による関係も続いていたと考えられます。
ここで、興味深いことが見えてきます。
争いの時代だからこそ、人々は以前から信頼していた地域とのつながりを大切にしたのではないでしょうか。
故郷で暮らせなくなった人々がいれば、安全な土地へ移ろうとするでしょう。
しかし、家族や仲間を連れて移動するには、行き先で生活できる見通しが必要です。
そのとき頼りになるのは、長い交流の中で知り合った人々や親族だったのではないでしょうか。
争乱から逃れた人々は、どこへ向かったのか
古代の人々の移動を考えるとき、現在の地図だけを見ていては分からないことがあります。
当時の海岸線や河川、潟湖、湿地は、現在と同じではありませんでした。
船で入れる場所も、川を渡る道も、時代によって違っていたのです。
日本海を通じて出雲から越へ向かう道。
但馬や丹後を経由して内陸へ入る道。
吉備から播磨、河内へ続く道。
そして、奈良盆地へ向かう道。
こうした交通路は、物を運ぶだけでなく、人々が新しい生活の場へ移動するためにも利用できました。
もし倭国大乱によって、各地の人々が故郷を離れたなら。
彼らはどこを目指したのでしょうか。
豊かな食料を得られる土地。
家族と安心して暮らせる場所。
そして、以前から交流していた人々が迎えてくれる土地。
そこには、交易の歴史が別の意味を持って現れます。
平和な時代には物を運ぶ道が、争いの時代には命を守るための道にもなる。
古代の交流網は、そうした役割も果たしていたのではないでしょうか。
倭国大乱の後に起きた、驚くべき変化
『魏志倭人伝』によると、長く続いた争いの後、各地の人々は卑弥呼を共通の王として立てたとされています。
ここで注目したいのは、勝った一人の武将が全国を征服した、という結末ではないことです。
複数の勢力が、一人の女性を王として共に立てた。
この記述には、当時の政治的な関係を考える重要な意味があります。
争い続けるよりも、共通の指導者を迎える道を選んだ。
それによって、各地の有力なクニが新しい関係を築こうとしたとも考えられます。
では、その女王を立てた人々は、どこに暮らしていたのでしょうか。
北部九州だったのでしょうか。
山陰まで広がる日本海の交流圏だったのでしょうか。
あるいは、さらに広い地域が関わっていたのでしょうか。
その範囲は、現在も大きな研究テーマとなっています。
しかし、ここまで見てきた出雲・吉備・越・但馬・丹後・北部九州の交流を重ねると、一つの興味深い見方が生まれます。
倭国大乱は、地域ごとの争いであると同時に、それまでのクニ同士の関係が新しく組み替えられる転換点だったのではないでしょうか。
そして、歴史は大和へ向かう
3世紀初頭。
奈良盆地の東南部に、纒向という大きな集落が急速に発展します。
そこからは東海、山陰、吉備、北陸など、多くの地域との交流を示す土器が見つかっています。
この時代の大和には、各地の物資や文化が集まっていたのです。
では、なぜその場所だったのでしょうか。
倭国大乱によって人々が移動したことと、関係があったのでしょうか。
奈良盆地の水環境が変化し、農地や居住地が広がったことも関係していたのでしょうか。
そして、移住してきた人々の中には、出雲や吉備、越などの有力な一族につながる人々もいたのでしょうか。
ここで、これまで別々に追ってきた謎が一つの場所に集まり始めます。
古代の争乱。
海や川を通じた交易。
人々の移動。
地域の有力者たち。
そして、新しい中心地の成立。
もし大和の発展が、各地から集まった人々によって支えられていたとしたら、日本の古代史はどのように見えてくるのでしょうか。
青谷の溝から見つかった人骨は、誰が勝ったのかを教えてはくれません。
しかし、約1800年前の日本海沿岸で、豊かな暮らしと激しい争いが同じ時代に存在していたことを伝えています。
その時代を生き延びた人々が、どこへ向かい、何を受け継いだのか。
歴史探訪は、ここからさらに大きな謎へと進んでいきます。
次回は、倭国大乱の後に共通の王として立てられた女性、卑弥呼へ。
そして、日本海の交流圏と北部九州、山陰を結ぶ邪馬台国の謎を追いかけます。
第12話「卑弥呼とは誰だったのか――北部九州と山陰を結ぶ、もう一つの邪馬台国」へ続きます。