卑弥呼とは誰だったのか――北部九州と山陰を結ぶ、もうひとつの邪馬台国
――日巫女、宇佐神宮、宗像大社。海の道に隠された女王の謎
今から約1800年前。
日本列島から、一行の使者が海を渡りました。
向かった先は、中国の魏。
使者たちが届けたのは、遠い島々に暮らす人々を代表する女王からの贈り物でした。
その女王の名は、卑弥呼。
『魏志倭人伝』によれば、西暦238年、倭の女王が魏へ使者を送り、翌年には魏からの使節が倭へ向かうことになります。
中国の皇帝からは「親魏倭王」の称号が与えられ、金印や銅鏡などが贈られました。
その銅鏡は、百枚。
当時の日本列島にとって、きわめて重要な外交上の出来事だったでしょう。
ところが、不思議なことがあります。
これほど重要な女王が、いったいどこに暮らしていたのか、今も決着がついていないのです。
北部九州なのか。
大和なのか。
それとも、私たちが考えている「国」の姿そのものが、当時の実態と違っているのでしょうか。
この謎を解くために、今回は少し視点を変えてみます。
邪馬台国は、一つの場所だけだったのか
『魏志倭人伝』には、邪馬台国へ向かう道順が記されています。
朝鮮半島から対馬へ。
対馬から壱岐へ。
そして、現在の北部九州へと進んでいきます。
末盧国、伊都国、奴国、不弥国。
それぞれの国には、人々が暮らし、地域をまとめる人物がいました。
しかも、魏の使者が滞在する場所や、物資を検査する仕組みまで記されています。
この記述から浮かんでくるのは、単なる小さな集落の集まりではありません。
海を渡る使節を迎え、贈り物を管理し、離れた地域との連絡を維持できる社会です。
ここで一つの疑問が生まれます。
女王が治める地域は、女王の住む一つの集落だけだったのでしょうか。
『魏志倭人伝』には、中国との使節の往来がある国として約三十の国が記されています。
しかし、そのすべてが現在の地図のどこに当たるのかは分かっていません。
そして、当時の人々が、現代の国家のような明確な国境で生活圏を区切っていたとも限りません。
各地に独自の共同体があり、交易や婚姻、祭祀を通じて結びついていたとしたら。
邪馬台国を、一つの城や都市だけで探すことには限界があるのではないでしょうか。
『魏志倭人伝』に残る、驚くべき仕組み
ここで、普段あまり注目されない記述を見てみます。
『魏志倭人伝』には、各地に市場があり、人々が必要な品物を交易していたことが記されています。
さらに、交易を監督する人物が置かれていたとも書かれています。
伊都国には、諸国を検察する役割を持つ人物が駐在していました。
つまり、女王に関係するクニ同士の間には、物資や使節の往来を管理する仕組みが存在していたのです。
ここが非常に興味深いところです。
長い年月をかけて、日本列島の人々は海や川を通じて交流していました。
食料、石材、鉄器、玉、織物。
それぞれの土地で得られる品物を交換し、必要なものを届けていたでしょう。
その交流がさらに発展し、複数のクニをまたぐ仕組みがつくられた。
そう考えると、邪馬台国の姿も違って見えてきます。
一人の女王がすべての人々に直接命令する巨大国家ではなく、交流してきたクニ同士を結ぶ政治的な連合。
そのような社会だったのではないでしょうか。
そして、この考え方は、卑弥呼が王になった理由にもつながっていきます。
なぜ、一人の女性が王に選ばれたのか
『魏志倭人伝』によれば、倭国では長い争いが続いていました。
一般に倭国大乱と呼ばれる出来事です。
その争いを経て、人々は一人の女性を共通の王として立てました。
卑弥呼です。
ここで考えたいことがあります。
もし、ある一つのクニが武力によってすべての地域を征服したなら、なぜその勝利者が王にならなかったのでしょうか。
なぜ、複数の勢力が女性を共立するという形になったのでしょうか。
長い争乱の結果、人々は戦いを続けることに限界を感じていたのかもしれません。
それぞれのクニには独自の暮らしがあり、誇りがあり、祖先から受け継いだ祭祀がありました。
他のクニの支配者に簡単に従うことはできなかったでしょう。
しかし、争い続ければ、人々の生活が壊れてしまいます。
そのような状況で、特定の軍事勢力ではなく、祭祀を担う人物を共通の王に迎えたとしたら。
卑弥呼は、争いに勝った人物というより、争いを終わらせるために選ばれた人物だったのではないでしょうか。
ここに、古代の共同体が持っていた政治のあり方を考える手がかりがあります。
卑弥呼は、本当に個人の名前だったのか
もう一つ、興味深い謎があります。
卑弥呼という名前です。
この三文字は、中国の歴史書に記された漢字です。
しかし、当時の日本列島の人々が、自分たちの言葉でどのように呼んでいたのかは分かりません。
そこで考えられてきたのが、「日巫女」や「姫巫女」という解釈です。
太陽や神々に仕える女性。
人々の祈りを受け止め、神意を伝える役割を担った人物。
もし卑弥呼が、そのような祭祀上の称号だったなら、歴史の見方が変わります。
『魏志倭人伝』には、卑弥呼が鬼道に仕え、人々をまとめる力を持っていたと記されています。
また、政治の実務には弟が関わっていたことも伝えています。
祭祀を担う女性と、実務を補佐する人物。
この役割分担も興味深いものです。
さらに、卑弥呼が亡くなった後には、男性の王が立てられたものの争いが再発し、卑弥呼の一族の女性である壱与が王となって国が落ち着いたと記されています。
ここで一つの疑問が残ります。
もし卑弥呼が「日巫女」という役割を示す称号だったなら、なぜ次の女王は壱与という別の名前で記されたのでしょうか。
卑弥呼だけが持っていた特別な地位だったのでしょうか。
それとも、祭祀を担う女性にも、それぞれ異なる役割があったのでしょうか。
この問いを追いかけると、北部九州の古い神社にたどり着きます。
宇佐神宮の亀山に眠るもの
大分県宇佐市。
ここに、全国の八幡宮の総本宮として知られる宇佐神宮があります。
神社の中心となる上宮は、亀山と呼ばれる場所に鎮座しています。
現在の祭神は、八幡大神、比売大神、神功皇后。
ところが、ここには別の興味深い考察が残されています。
宇佐神宮の比売大神こそ、卑弥呼ではないか。
この見方は、宇佐神宮の古い信仰と邪馬台国を結びつけて考える説として知られています。
宇佐市の公式広報でも、市長がこの関係について考察を紹介しています。
そこでは、卑弥呼が祭祀によって人々をまとめたことと、宇佐の巫女による神託の伝統が結びつけられています。
さらに、宇佐神宮の亀山を卑弥呼の墳墓に比定する説もあります。
もしそうだとしたら、卑弥呼の記憶は、王の名前としてではなく、後世の神社祭祀の中に残されたことになります。
もちろん、亀山の築造年代や埋葬者について、この説を直接示す考古資料がそろっているわけではありません。
しかし、興味深いのは、単に卑弥呼の墓を探すことではありません。
なぜ宇佐の人々は、これほど古い女性の祭祀を重要なものとして伝えてきたのでしょうか。
そこに、北部九州の古い社会の記憶が残っているのではないでしょうか。
宗像大社との、もう一つのつながり
ここで、宇佐から北へ目を向けてみます。
福岡県宗像市。
玄界灘に面したこの地域には、宗像大社があります。
宗像大社は、沖津宮、中津宮、辺津宮の三宮から成り、それぞれ宗像三女神を祀っています。
沖津宮は沖ノ島。
中津宮は大島。
辺津宮は九州本土。
この三つの場所を地図に置くと、海上交通と深く関わる位置関係が浮かび上がります。
とりわけ沖ノ島は、古くから海上祭祀の重要な場所として知られています。
島からは大量の貴重な奉献品が出土し、その多くは4世紀以降の祭祀の歴史を伝えています。
では、そうした祭祀が行われる以前、玄界灘を渡っていた人々は、どのような祈りを捧げていたのでしょうか。
海の向こうから船が帰ってくること。
大切な家族が無事に戻ること。
豊かな漁獲や、遠方との交易が続くこと。
海を生活の場としていた人々にとって、祈りは日々の暮らしと切り離せなかったでしょう。
ここで、宇佐神宮との関係にも注目したいところです。
宇佐神宮の二之御殿に祀られる比売大神は、現在、宗像三女神とされています。
宇佐と宗像には、女性の神々を通じた祭祀上のつながりが残っているのです。
北部九州の政治と祭祀を考えるうえで、見逃せない関係でしょう。
海を西へ進むと、山陰がある
さて、ここから再び邪馬台国の所在地へ戻ります。
『魏志倭人伝』には、投馬国という大きなクニが登場します。
水路で二十日という行程と、およそ五万戸という規模が記されています。
この投馬国を、出雲を含む山陰地方に結びつける説があります。
もし、女王に関係するクニの範囲が北部九州だけではなく、山陰にも広がっていたとしたら。
私たちがこれまで調べてきた日本海の交流網が、別の意味を持ち始めます。
北部九州には、大陸との往来を担う港がありました。
山陰には、出雲を中心とする有力な地域勢力が存在していました。
そして、その間には但馬や丹後など、独自の技術と文化を持つ地域がありました。
さらに東へ進めば、越があります。
これらの地域は、決して孤立していたわけではありません。
古くから交易を続け、物資や人々が行き来していたことは、各地の遺跡が示しています。
ここで、ひとつの大胆な問いが生まれます。
邪馬台国とは、北部九州と山陰の両方にまたがる、海上交通で結ばれたクニの連合ではなかったのでしょうか。
そう考えれば、北部九州の外交拠点と、山陰の有力な地域勢力を、同じ大きな政治的関係の中で見ることができます。
そして、倭国大乱の後に卑弥呼が共立された理由も、地域間の争いと和解という視点から考えられるようになります。
出雲の王墓は、何を伝えているのか
ここで、もう一度出雲の西谷墳墓群を思い出してみます。
西谷3号墓からは、吉備や丹後など、遠く離れた地域との交流を示す土器が出土しています。
そして、吉備には巨大な楯築墳丘墓がありました。
丹後には豪華な頭飾りを持つ人物が葬られた赤坂今井墳墓があります。
越には小羽山30号墓があります。
それぞれの地域で有力な人物が存在し、特別な葬送儀礼が行われていました。
それらの人物の中には、遠方と婚姻関係を結んだ一族もいたでしょう。
交易を取りまとめた人物もいたでしょう。
祭祀を担い、多くの人々から信頼された人物もいたはずです。
そして、この時代に倭国大乱が起きたとすれば。
それまで交流を続けていた地域同士の関係が、争いによって大きく変わったのではないでしょうか。
勝者と敗者が生まれた。
故郷を離れる人々が現れた。
新しい政治的な関係をつくる必要が生まれた。
そのような状況で、一人の女性が共通の王として選ばれた。
卑弥呼の登場を、このような広い歴史の中で考えることもできるのです。
そして、女王が亡くなると再び争いが起きた
『魏志倭人伝』は、卑弥呼の死後についても興味深い記録を残しています。
大きな墓が築かれた。
その後、男性の王が立てられた。
しかし、国中が従わず、再び殺し合いが起きた。
そして、卑弥呼の一族の壱与が王になると、争いは収まったとされています。
ここは非常に重要です。
女王の死後、政治的な均衡が崩れ、同じ一族の女性を迎えることで再び落ち着いた。
この流れは、卑弥呼が単に強い軍事力を持っていたから王になった、という説明とは違う姿を見せています。
それぞれ独立性を持つクニが、共通して受け入れられる人物を必要としていた。
その人物がいなくなると、再び争いが起きる。
これは、複数の共同体による政治的な連合を考えるうえで、興味深い記録です。
では、壱与は何を受け継いだのでしょうか。
女王という政治的な地位でしょうか。
卑弥呼の一族としての権威でしょうか。
それとも、祭祀を通じて人々を結びつける役割だったのでしょうか。
本当の謎は、女王の居場所だけではない
邪馬台国はどこにあったのか。
卑弥呼は誰だったのか。
その墓はどこにあるのか。
これらは、古代史の中でも多くの人々を引きつけてきた謎です。
しかし、ここまで各地の歴史を追ってくると、さらに大きな疑問が生まれます。
なぜ、それほど広い範囲の人々が、一人の女性を共通の王として受け入れたのでしょうか。
もし北部九州と山陰が古くから交流し、婚姻や交易、祭祀を通じて結ばれていたなら。
そこに倭国大乱という争いが起きたとすれば。
人々は、これ以上の争いを避けるために、共通の象徴となる人物を選んだのではないでしょうか。
そして、祭祀を担う女性には、異なるクニの人々が敬意を払える特別な役割があったのかもしれません。
卑弥呼を「日巫女」という称号として考える視点も、ここにつながってきます。
王の名前を探すだけではなく、当時の人々がどんな社会を築き、どのように争いを収めようとしたのか。
そこから、邪馬台国の本当の姿を探っていきたいのです。
そして、この時代。
奈良盆地でも、まったく別の大きな変化が起きていました。
3世紀初頭、大和の纒向に、各地の文化を持つ人々が集まる大きな拠点が現れたのです。
なぜ、そこだったのでしょうか。
なぜ、その時代だったのでしょうか。
そして、奈良盆地に残る「一夜にして水が引いた」という伝承は、何を伝えているのでしょうか。
次回は、神社に残された水の記憶と、古代大和の地形を追いかけます。
第13話「水が引いた大和――纒向に人々が集まった理由」へ続きます。