越の港に集まった外国人たち――外交と民間交易の境界に隠された古代日本の実像
――国は禁止した。それでも人々は取引を続けた。渤海使が明らかにする日本海のもう一つの歴史
西暦828年。
朝廷から、ある命令が出されました。
外国から来た人々との私的な交易を厳しく禁止するという命令です。
対象になったのは、日本海を渡ってやって来た渤海国の使節たちでした。
しかし、ここで不思議なことがあります。
そもそも、なぜ禁止する必要があったのでしょうか。
もし、外国との交易がすべて朝廷の管理下で行われていたなら、わざわざ厳しい禁止令を出す必要はなかったはずです。
ところが、当時の記録を読むと、驚くような状況が見えてきます。
外国から珍しい品物が届くと、一般の人々だけでなく、貴族の家から派遣された使いや、地方行政を担当する役人までが取引に関わっていました。
しかも、互いに競い合うように品物を求めていたというのです。
国家が管理しようとした国際交易の現場では、人々が自分たちの判断で品物を交換していました。
これは、想像だけで描かれた話ではありません。
『類聚三代格』に収められた828年の太政官符に残された記録です。
そして、この出来事を詳しく調べると、古代の越が単なる外国使節の到着地ではなかったことが分かってきます。
そこには外交官、船乗り、通訳、地方の有力者、交易に関わる人々が集まる世界がありました。
今回は、古代の国際交流を、国家の外交という視点からだけでなく、そこで働き、品物を交換していた人々の立場から考えてみたいと思います。
外国の船が来たとき、最初に会うのは誰だったのか
8世紀から9世紀にかけて、渤海国から多くの使節が日本へやって来ました。
その船は、日本海沿岸の各地に到着しました。
能登。
加賀。
越前。
出羽。
そして、若狭や山陰方面に到着した例もあります。
しかし、外国の船が海岸へ近づいてきたとき、最初に対応したのは都の天皇や貴族ではありません。
その地域で暮らしていた人々や、地方行政を担当する役人たちでした。
船が到着したことを確認する。
どこから来た船なのかを調べる。
人数や目的を把握する。
朝廷へ連絡を送る。
そして、滞在中の食料や宿泊場所を準備する。
外交の正式な判断は朝廷が行います。
しかし、その判断を実際の対応につなげるには、地方の人々の働きが必要でした。
ここで考えたいことがあります。
外国から来た人々を迎えるという仕事は、単に命令に従うだけで成立したのでしょうか。
言葉の違いがあります。
生活習慣の違いもあります。
食べ物や必要な道具も違ったかもしれません。
遠くから船で到着した人々を受け入れるには、さまざまな工夫が必要だったはずです。
古代の国際交流は、都で行われた華やかな外交儀礼だけではなく、日本海沿岸の地域社会によって支えられていたのです。
841年の記録に残された、105人の使節団
ここで、一つの具体的な資料を見てみましょう。
841年の「渤海国中台省牒案」という文書です。
この文書には、日本へ派遣された渤海使105人の構成が記されています。
使節団の長である使頭が1人。
副使が1人。
判官が2人。
録事が3人。
そして、通訳に当たる訳語が2人。
さらに、文書や雑務を担当する史生、天文生、地方の首領、船員などが加わっていました。
特に注目したいのが、65人の大首領と28人の梢工です。
大首領は、交易を目的として使節団に加わった地方の首長たちと考えられています。
梢工は、船の操縦を担当する人々です。
つまり、105人の使節団は、外交官だけで構成されていたわけではありません。
むしろ、外交以外の役割を担う人々が多数を占めていたのです。
ここに、非常に重要な事実があります。
渤海使は国家の公式使節でありながら、その内部に交易を目的とする人々と、航海を実現する技術者を含んでいたのです。
国家の外交と、人々の経済活動。
その二つは、同じ船の中に存在していました。
65人の首領は、何を求めて日本へ来たのか
841年の使節団に参加した65人の大首領。
彼らは、一体どのような人々だったのでしょうか。
渤海は、現在の中国東北部、ロシア沿海地方、朝鮮半島北部に広がる大きな国家でした。
その領域には、農耕を営む人々だけでなく、狩猟や漁労を行う人々も暮らしていました。
地域によって、得られる資源も異なります。
森林の豊かな地域では毛皮。
山地では薬用植物。
河川や沿岸では魚類などの水産資源。
それぞれの地域の有力者は、異なる物資を集める立場にあったと考えられます。
では、彼らが日本へ向かった目的は何だったのでしょうか。
公式の外交使節に参加することで、外国との交易に関わる機会を得られた可能性があります。
渤海からは、貂などの毛皮や人参、蜂蜜などが日本へ運ばれていました。
一方、日本からは絹や糸、綿などの繊維製品が渡されていました。
こうした品物を交換することは、交易に関わる人々にとって大きな意味を持ったでしょう。
ただし、65人それぞれの出身地や取引内容まで分かっているわけではありません。
それでも、公式の使節団に多数の地方首領が参加していた事実は、外交と交易が深く結びついていたことを示しています。
船を動かす28人と、星を読む人
もう一つ注目したいのが、28人の梢工です。
梢工とは、船を操る人々を指します。
日本海を横断するには、船を動かす高度な技術が必要でした。
船の構造を知る。
帆を扱う。
舵を操作する。
風向きや潮流を判断する。
そして、天候の変化に対応する。
こうした仕事を担う人々がいなければ、外交官がどれほど立派な国書を持っていても、日本へ到着することはできません。
さらに、841年の使節団には天文生が1人いました。
天文生は、天体に関する知識を持つ役職です。
航海では、太陽や星の位置などが方角を判断する手がかりになります。
当時の天文生が、航路の判断や気象の予測に関わっていたと考えられています。
ここで興味深いのは、国家の外交に専門的な技術を持つ人々が組み込まれていたことです。
外交官。
通訳。
書記。
交易を担う地方首領。
船員。
天文に関する知識を持つ人。
一つの使節団は、異なる専門性を持つ人々によって構成された、海を渡るための組織でもあったのです。
そして、その人々が越の港に到着したとき、今度は日本側のさまざまな仕事が必要になりました。
外国の言葉は、誰が理解していたのか
日本海を渡ってきた渤海使と、日本の役人たち。
彼らは、どのように意思を伝えていたのでしょうか。
ここで重要になるのが、訳語と呼ばれる通訳の存在です。
841年の使節団には、2人の訳語が参加していました。
しかし、通訳がいたからといって、すべての意思疎通が簡単だったわけではないでしょう。
外交文書の内容を伝える。
滞在に必要なものを確認する。
帰国するための準備を相談する。
品物の種類や数量を確認する。
さまざまな場面で、異なる言語を持つ人々の間に意思疎通が必要になります。
また、古代東アジアでは、漢文が国家間の文書のやり取りに重要な役割を果たしていました。
日本と渤海の外交でも、漢文による国書や文書が使われています。
しかし、文字で外交文書を交換することと、日常生活の場面で意思を伝えることは別の問題です。
船員や地域の人々が、どこまで相手の言葉を理解していたのかは分かりません。
通訳を介した会話もあったでしょう。
品物や身振りを使って意思を伝える場面もあったかもしれません。
ここで考えたいのは、言葉が違っても、実際に交流が続いていたということです。
異なる言語を持つ人々が接触し、交渉し、品物を交換するための知識や方法が、当時すでに存在していたのです。
越の港には、どれほどの負担がかかったのか
外国からの使節が到着することは、歓迎すべき出来事であると同時に、地元にとって大きな負担でもありました。
福井県史には、渤海使への食料支給について詳しい説明があります。
『延喜式』には、使節の役職ごとに食料の支給量を定めた規定が残されています。
大使や副使には多くの食料が支給され、その他の役人や船員にも、それぞれ決められた量が用意されました。
841年の105人の使節団を例に計算すると、一日当たり稲280束に相当する支給量になります。
仮に90日間滞在したとすれば、合計2万5200束です。
もちろん、これは規定に基づく試算であり、実際の支給記録そのものではありません。
しかし、外国使節を長期間受け入れることが、どれほど大きな仕事だったのかを考える手がかりになります。
食料を集める人。
運搬する人。
施設を維持する人。
船を修理する人。
そして、朝廷からの命令に対応する地方の役人。
こうした人々の仕事によって、外交は支えられていました。
華やかな国際交流の背後には、地域社会の具体的な負担があったのです。
828年、朝廷が交易を禁止した理由
ここで、冒頭の828年の出来事へ戻りましょう。
この年、朝廷は渤海使との私的な交易を厳しく禁止する命令を出しました。
『類聚三代格』に残された太政官符です。
その背景には、外国から来た珍しい品物を求めて、多くの人々が取引に関わっていた状況がありました。
重要なのは、禁止の対象となった人々です。
一般の人々。
貴族の家から派遣された使者。
そして、地方行政を担当する国司。
本来、外国使節との交易を管理する立場にあった役人まで、私的な取引に関わっていたのです。
命令では、一般の人々が違反した場合の処罰も定められていました。
さらに、国司が取引を黙認したり、自分で品物を購入したりした場合には、重い処罰の対象となりました。
なぜ、朝廷はここまで厳しく管理しようとしたのでしょうか。
律令制度では、外国人との交易について、官司が先に取引する権利を持っていました。
その順序を無視して民間の人々が取引すれば、国家による管理が難しくなります。
また、外国から持ち込まれた価値ある品物が、朝廷の意図しない相手へ渡ってしまうことにもなります。
国家としては、外交と交易の秩序を維持する必要があったのでしょう。
しかし、ここには別の問題があります。
国家が禁止するほど、外国の品物を求める人々が存在していたのです。
これは、古代日本の経済活動を考えるうえで、とても興味深い記録です。
禁止令は、交易が存在していた証拠でもある
歴史書に禁止令が残っていると、私たちは禁止された内容に注目しがちです。
しかし、少し視点を変えてみましょう。
なぜ、その命令が必要だったのでしょうか。
なぜ、わざわざ処罰まで定めたのでしょうか。
それは、実際に問題となる行動が存在していたからです。
もちろん、禁止令に記された内容だけで、違反者の人数や交易の規模を正確に知ることはできません。
しかし、少なくとも朝廷が私的な交易を問題視していたことは確かです。
そして、一般の人々だけでなく、貴族の家や国司までが関わっていたという記録があります。
ここから、重要なことが分かります。
古代の外国交易は、必ずしも国家だけが一方的に動かしていたものではありませんでした。
価値ある品物を求める人々がいて、取引の機会を得ようとしていたのです。
国家は、その活動を管理しようとしました。
しかし、人々の取引への関心そのものを簡単になくすことはできませんでした。
禁止令の存在は、国家の統制の強さだけでなく、その統制の対象となった人々の経済活動も示しているのです。
外国から届く品物は、なぜ人々を引きつけたのか
渤海使が日本へ持ち込んだ品物には、さまざまなものがありました。
貂や虎などの毛皮。
人参。
蜂蜜。
そして、大陸の工芸品などです。
特に良質な毛皮は、貴族社会で珍重されました。
しかし、ここで考えたいことがあります。
珍しい品物が価値を持つのは、単に遠くから来たからなのでしょうか。
品質が優れていたのかもしれません。
日本国内では入手が難しかったのかもしれません。
また、貴重な外国の品物を持つことが、社会的な地位や権威を示す意味を持っていた可能性もあります。
交易には、生活のために必要なものを交換する側面があります。
一方で、希少性や社会的な評価によって品物の価値が高まることもあります。
都の有力者たちが珍しい品物を求めるようになれば、それを運ぶ人々にとっても利益を得る機会が生まれます。
こうして、遠方から物資を運ぶ活動が経済的な意味を持つようになります。
では、越の港にいた人々は、こうした交易から何を得ていたのでしょうか。
直接品物を購入した人もいたかもしれません。
使節の受け入れに関わったことで、外国の文化や技術に触れた人もいたでしょう。
しかし、具体的に誰がどのような利益を得たのかは、さらに史料を調べる必要があります。
872年、都の商人との取引が認められた
9世紀後半になると、渤海使との交易をめぐる記録には、さらに興味深い動きが現れます。
872年。
『日本三代実録』には、渤海使の持参した品物について、朝廷の担当機関が取引を行った後、都の人々や市人との交易が認められたことが記されています。
ここで重要なのは、単純に私的な交易が全面的に自由になったわけではないということです。
国家による取引が先に行われ、その後で民間との交易が認められました。
つまり、国家の管理と民間の取引が、一定の順序の中で組み合わされていたのです。
ここから、古代の国際交易が単純な二つの状態ではなかったことが分かります。
国家がすべて独占していた。
あるいは、民間が自由に交易していた。
そのどちらか一方だけでは説明できません。
国家が先に品物を確保し、その後で民間の商人が交易に参加する。
一方、地方では、正式な手続きを待たずに取引しようとする動きもあった。
国家の管理制度と、人々の経済活動が重なり合いながら、古代の国際交易は進んでいたのです。
882年、加賀で再び交易が禁止された
872年の記録から10年後。
882年には、渤海使105人が加賀国へ到着しました。
朝廷は、使節を適切な場所に滞在させ、必要な物資を供給するよう命じました。
そして、持参した貨物について、私的な交易を禁止しました。
ここで注目したいのは、828年から半世紀以上が経過していることです。
それでも、外国使節の到着地における交易の管理が、引き続き重要な問題になっていたのです。
さらに翌883年、朝廷は渤海使の入京に備えて、北陸道沿いの施設を整えるよう命じました。
官舎や道路、橋などの整備です。
また、越前、能登、越中から、酒や魚、鳥などの食料を加賀へ送るよう求めました。
これは、外国使節の受け入れが一つの港だけで完結していなかったことを示しています。
複数の地域が協力し、使節の移動と滞在を支えていたのです。
そして、その仕組みを維持するために、国家は地方の人々や物資を動員していました。
国際外交の現場には、行政と物流の大きな仕組みが存在していたのです。
敦賀の松原客館は、何をしていたのか
ここで、越前の敦賀へ目を向けてみましょう。
敦賀には、松原客館と呼ばれる外国使節の受け入れに関係した施設がありました。
この施設は、渤海使の滞在や、都へ向かう途中の接待などに利用されたと考えられています。
興味深いのは、その立地です。
敦賀は、日本海に面した港であると同時に、近江を経て都へ向かう陸上交通の重要な場所でもありました。
船で来た人々が、陸路へ移ることができる。
逆に、都から来た人々が、海へ向かうこともできる。
海の道と陸の道が交わる場所だったのです。
福井県史では、松原客館が外国使節の受け入れだけでなく、帰国準備のための滞在にも利用された可能性が検討されています。
また、外国使節と地域の人々との私的な交流や交易が行われていた可能性も指摘されています。
ただし、個々の取引の実態まで明らかになっているわけではありません。
それでも、松原客館の存在は重要です。
港へ船が到着するだけでなく、その後の移動、滞在、帰国準備までを支える施設が必要だったことを示しているからです。
古代の港の価値は、船が停泊できるという地理的な条件だけではなく、人と物資を次の場所へつなぐ機能にもあったのです。
外国人が来ることで、地域には何が残ったのか
渤海使の来航によって、越の地域にはどのような影響があったのでしょうか。
まず、外国の品物に触れる機会が生まれました。
また、外交使節の接待や、船の修理、物資の輸送などに関わる仕事も発生しました。
さらに、外国の人々と接触することで、異なる言葉や習慣、道具、技術を知る機会もあったと考えられます。
しかし、ここで注意したいのは、接触したことと、実際に新しい技術が地域へ定着したことは同じではないという点です。
外国の品物を見た人がいたとしても、それを使う技術まで伝わったとは限りません。
また、文化的な影響があったとしても、それがどのような経路で広がったのかは、考古学的な資料などと照らし合わせる必要があります。
それでも、外国人との接触が継続的に行われていたことには意味があります。
一度だけ珍しい船が来たのではありません。
長い年月にわたり、使節が繰り返し日本海を渡っていたのです。
そのたびに、地方の役人や人々が対応しました。
こうした経験は、地域社会にとっても大きな出来事だったでしょう。
国家は交易を始めたのか、それとも管理したのか
ここで、これまでの歴史探訪とつながる問題があります。
国家が外国の使節を迎えたことで、初めて日本海を通じた交流が始まったのでしょうか。
そうではありません。
日本海沿岸では、それ以前から人々の移動や物資の交換が行われていました。
縄文時代には、糸魚川周辺の翡翠が遠くまで運ばれました。
北海道と本州の間にも、長い交流の歴史がありました。
7世紀には、朝廷による北方への遠征が記録されています。
そして8世紀になると、渤海との公式外交が始まりました。
これらは、それぞれ異なる時代の出来事です。
同じ交易制度が継続していたと考えることはできません。
しかし、海を利用して人々が遠くへ移動する活動は、国家の公式外交よりもはるか以前から存在していました。
ここで重要なのは、国家の役割を正確に考えることです。
国家は、外交の制度を整えました。
外国使節を受け入れるための仕組みを設けました。
交易の順序や条件を管理しました。
しかし、それによって初めて人々が海を渡れるようになったわけではありません。
国家が管理するようになる以前から、海を渡り、物資を運び、遠方の人々と関係を築く活動が存在していたのです。
越の人々は、どんな役割を担っていたのか
ここで、越という地域をもう一度考えてみましょう。
古代の越には、海岸沿いの集落があり、河川があり、山々がありました。
そして、日本海を利用する人々が暮らしていました。
そこへ外国の船が到着すれば、新しい仕事が生まれます。
船の状態を確認する。
必要な物資を用意する。
人や荷物を運ぶ。
行政機関へ連絡する。
都へ向かう経路を確保する。
一つの船が到着するだけでも、多くの人々の働きが必要だったはずです。
また、交易の機会が生まれれば、品物の価値を判断し、相手と条件を調整する人も必要になります。
こうした仕事は、国家の命令だけで完結するものではありません。
現場の人々の知識や経験によって、実際の対応が可能になります。
ここで興味深いのは、越が単なる政治的な支配の対象だっただけではないということです。
越の地域社会は、国家の外交を実現するための重要な役割を担っていました。
越は、外から与えられた命令を受けるだけの土地ではなく、海と陸を結ぶ交通や物流を実際に動かす人々が暮らす地域でもあったのです。
禁止された交易から見えてきたもの
最後に、828年の禁止令へ戻りましょう。
外国から珍しい品物が届く。
人々がそれを求める。
貴族の家から使者が派遣される。
地方の役人も取引に関わる。
そして、朝廷は私的な交易を禁止する命令を出す。
この出来事から、何が見えてくるでしょうか。
まず、外国の品物に対する需要が存在していたことです。
そして、その需要に応えようとする人々がいたことです。
さらに、国家が交易を管理しようとしても、人々の経済活動を完全に統制することは難しかったことも分かります。
ここで、国家と民間の関係を単純な対立として考える必要はありません。
国家の外交使節という制度があったからこそ、外国の品物が一定の仕組みの中で運ばれてきた面もあります。
一方、その制度の内部や周辺には、経済的な利益を求める人々の活動が存在していました。
国家の制度と、人々の仕事。
政治的な目的と、経済的な目的。
それらが重なり合うことで、古代の国際交流が成り立っていたのです。
歴史を動かしたのは、外交官だけではなかった
古代の外交史を読むと、国王や天皇、使節の名前が登場します。
しかし、841年の使節団の記録を見れば、外交官以外の人々が数多く参加していたことが分かります。
船を動かした人。
星を読み、航海を支えた人。
言葉を伝えた人。
品物を運んだ人。
交易を目的に参加した地方の首領たち。
そして、日本へ到着した後、その人々を受け入れた地域社会。
こうした人々の活動がなければ、国際交流は成立しませんでした。
国家が外交関係を結ぶということは、書類を交換するだけではありません。
実際に船を動かし、海を渡り、人と物資を運ぶ必要があります。
そのためには、多くの人々の技術と経験が必要だったのです。
歴史書には国王や使節の名前が残ります。しかし、国際交流を実際に動かしていたのは、名も残らなかった多くの人々でもあったのです。
そして、日本海沿岸の越は、その人々が出会う重要な場所の一つでした。
外国から来た人々。
都から派遣された役人。
地域で暮らす人々。
交易に関わる人々。
異なる目的を持った人々が、同じ港や交通路で関わり合っていました。
そこには、国家が決めた外交制度だけでは説明できない、人々の活動が存在していたのです。
日本海を舞台とした交流の歴史は、政治や戦争の歴史だけではありません。
人が出会い、知識を交換し、品物を運び、新しい関係を築いていく歴史でもあります。
古代の越の港に残された国際交流の記録は、人々の仕事と判断が、国家の外交を支え、ときには国家の定めた制度を越えて広がっていたことを教えてくれます。
では、そのような交流を可能にした日本海の港や交通路は、どのように形成されていたのでしょうか。
国家が港を整備する以前、人々はどこで船を出し、どこで荷物を積み替え、どのように内陸の人々と結びついていたのでしょうか。
次の歴史探訪では、古代の日本海沿岸にあった港と交通路を取り上げます。
港は、国家がつくったから人々が集まったのでしょうか。それとも、人々が集まっていた場所に、後から国家が拠点を設けたのでしょうか。