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港は誰がつくったのか――越の海と川を結んだ人々、国家が利用した古代の交通網

2015.10.15

――敦賀・三国・比楽・曰理・蒲原。日本海沿岸に残された港の記録から見えてくるもの

古代の越前。

九頭竜川を、小さな船が下っていきます。

船には、米や地域で生産された品物が積まれています。

川の流れに沿って進むと、やがて日本海へ続く河口に近づきます。

そこには、海を航海する船がありました。

川を下ってきた船から、別の船へ荷物を積み替える。

海の状態を確かめる。

次の寄港地へ向かう準備をする。

そうした作業が行われていたのでしょう。

この交通の結節点が、後に日本海有数の港として発展する三国湊です。

しかし、ここで疑問があります。

この港は、誰がつくったのでしょうか。

朝廷が場所を決め、人々を集めて整備したのでしょうか。

それとも、地域の人々が以前から利用していた場所に、後から行政上の役割が与えられたのでしょうか。

そもそも、港とは何でしょう。

船が停泊できれば、それだけで港と呼べるのでしょうか。

今回の歴史探訪では、敦賀津、三国湊、比楽湊などの記録を手がかりに、古代の越を支えた交通と物流の仕組みを考えていきます。

港は、最初から町だったわけではない

現在の港には、岸壁や倉庫、道路などが整備されています。

船を安全に停泊させ、荷物を効率よく運ぶための設備があります。

しかし、古代の港が最初から同じような姿をしていたわけではありません。

自然の入り江。

波を避けられる湾。

川の河口。

船を引き上げやすい砂浜。

こうした場所が、船を利用する人々の活動拠点になったと考えられます。

最初は、漁に出るための場所だったかもしれません。

近くの集落へ品物を運ぶ場所だったかもしれません。

やがて、異なる地域から船が訪れるようになる。

荷物の積み下ろしが増える。

船の修理や物資の保管が必要になる。

そうした活動が積み重なれば、港としての機能が発達していくでしょう。

ただし、すべての港が同じ過程で成立したとは限りません。

政治的・軍事的な目的で計画的に整備された港もあったと考えられます。

ここで重要なのは、船が利用する自然の場所と、行政機能や設備を備えた港を区別することです。

人々が船を利用していたことと、国家が港を管理するようになったことは、必ずしも同じ時期の出来事ではないのです。

敦賀は、なぜ重要な港になったのか

越前の港を考えるとき、敦賀は欠かせません。

敦賀湾は、日本海から内陸へ深く入り込んだ湾です。

湾の奥には、船が利用できる海岸があります。

そして、敦賀の南には山々が広がっていますが、それを越えれば近江へ向かうことができます。

近江には琵琶湖があります。

琵琶湖の水運を利用すれば、さらに都に近い地域へ物資を運ぶことが可能になります。

ここに敦賀の地理的な特徴があります。

日本海を航海してきた船の荷物を陸揚げする。

陸路で山を越える。

その後、琵琶湖の水運を利用する。

海と陸、湖の交通を組み合わせることで、長距離の物資輸送が可能になったのです。

もちろん、時代によって道路や輸送の仕組みは変化しました。

しかし、敦賀が日本海側と畿内を結ぶ重要な位置にあったことは変わりません。

実際に、古代の敦賀津には、北陸道沿いの各地から多くの物資が集められていました。

ここで考えたいのは、敦賀の価値が単に船を停泊させられることだけではなかったという点です。

海から運ばれた物資を、次の交通手段へつなげられることが、敦賀の大きな強みだったのです。

『日本書紀』に残る、敦賀の古い姿

敦賀の歴史を考えるうえで、興味深い記録があります。

『日本書紀』には、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)という人物が登場します。

朝鮮半島南部の意富加羅国からやって来たとされる人物です。

記録では、この人物が船に乗り、越国の笥飯浦(けひのうら)へ到着したことが語られています。

そして、その人物の名前が角鹿という地名の由来になったとする伝承が残されています。

現在の敦賀につながる地名です。

ただし、これは古代の説話として伝えられたものです。

記録された内容のすべてを、そのまま実際の出来事として扱うことはできません。

しかし、注目したいことがあります。

敦賀という土地の由来を説明する物語に、海の向こうから船で来た人物が登場するのです。

しかも、物語は朝鮮半島との関係を含んでいます。

このことは、少なくとも『日本書紀』が編纂された時代には、敦賀が海の向こうと結びつく場所として認識されていたことを考える手がかりになります。

歴史上の出来事として確かめられることと、人々がその土地について語り継いできたこと。

両方を区別して調べることで、港の持つ意味が見えてきます。

海に面しているだけでは、港は発展しない

では、海岸にあれば、どの土地でも大きな港になれるのでしょうか。

そうではありません。

港が発展するには、さまざまな条件が必要です。

船が安全に近づけること。

風や波を避けられること。

陸上の交通路とつながっていること。

物資を集められる地域が背後にあること。

そして、港を利用する人々がいることです。

特に重要なのが、港の背後に広がる地域との関係です。

港の近くで生産された品物だけを運んでいたのでは、扱える物資は限られます。

しかし、川を利用して内陸から品物を集められれば、港の役割は大きくなります。

その代表例が、九頭竜川の河口に位置する三国湊です。

九頭竜川が結びつけた越前の内陸

福井県を流れる九頭竜川。

その流域には、足羽川や日野川、竹田川などの河川があります。

これらの川は、越前の内陸と日本海側を結ぶ重要な交通路になりました。

福井県史では、こうした河川を利用して地域の物資が三国湊へ集められ、そこから海上輸送されたことが説明されています。

ここで注目したいのは、港が海岸だけで完結していないことです。

内陸で米や品物を生産する人々がいる。

それを川へ運ぶ人々がいる。

川船を操る人々がいる。

そして、河口で海船へ積み替える人々がいる。

港は、こうした仕事のつながりの中で機能していました。

ただし、三国湊の河川舟運について、具体的な輸送活動が詳しく記録されるのは、主に中世以降です。

古代にも同じ規模、同じ運送制度が存在していたと断定することはできません。

それでも、河川と日本海が結びつく地理的な条件は、古くから存在していました。

後の時代に三国湊が発展した背景を考えるうえでも、この条件は重要です。

港の繁栄は、海岸にある設備だけでなく、その背後に広がる地域の生産活動と交通網によって支えられていたのです。

陸路と海路では、輸送費がこれほど違った

ここで、福井県史に残された興味深い試算を紹介します。

古代の越前から都へ、米50石を運ぶ場合の輸送費です。

陸路だけで馬を利用した場合と、船と馬を組み合わせた場合を比較しています。

陸路だけの場合、必要な経費は米45.54石と塩5.94升。

一方、船と馬を組み合わせた場合は、米14.92石と塩2.97升でした。

米で示された輸送費を比較すると、船を組み合わせた場合は約3分の1になります。

これは非常に大きな違いです。

50石の米を運ぶために、陸路だけなら45石以上に相当する輸送費がかかる。

しかし、船を利用すれば、その負担を大きく減らせるのです。

もちろん、当時の制度や輸送条件に基づく試算であり、すべての地域や品物にそのまま当てはまるわけではありません。

それでも、船を利用することに大きな経済的な意味があったことが分かります。

なぜ、古代の人々が海や川を利用したのか。

その理由の一つが、ここにあります。

大量の物資を運ぶためには、海や川の交通を利用することが非常に重要だったのです。

国家が港を必要とした理由

古代の律令国家は、各地から租税や貢納物を集めていました。

地方で生産された米やさまざまな物資を、必要な場所へ運ばなければなりません。

しかし、遠く離れた地域から大量の荷物を陸路だけで運ぶことは、容易ではありません。

馬や人の労力が必要です。

食料も消費します。

時間もかかります。

そこで重要になったのが、船による輸送です。

福井県史によれば、敦賀津には北陸道の各国から官米などの物資が集められていました。

加賀の比楽湊。

能登の加嶋津。

越中の曰理津。

越後の蒲原津。

佐渡の国津。

こうした港が、物資の搬出に関わっていました。

ここで、日本海沿岸の港を一つずつ独立した場所として見るだけでは十分ではありません。

複数の港が海路で結ばれ、物資が敦賀へ運ばれていたのです。

そこから都へ向かう交通路につながっていました。

古代の港は、地域ごとの船着き場であると同時に、国家の物資輸送を支える広域的な交通網の一部でもあったのです。

比楽湊は、なぜ重要だったのか

現在の石川県を流れる手取川。

その河口付近には、古代の比楽湊があったと考えられています。

比楽湊は、加賀方面の物資を海上輸送するうえで重要な港でした。

しかし、ここには興味深い問題があります。

古代の行政制度と、実際の物資輸送の仕組みが、必ずしも一致していなかった可能性があるのです。

『延喜式』には、北陸道の輸送に関する規定が残されています。

ところが、福井県史では、比楽湊を越前の物資輸送の基準とする規定について、加賀国が分離する以前の制度が残された可能性を指摘しています。

実際には、九頭竜川流域の物資を一度加賀の比楽湊まで運ぶより、河口の三国から船積みする方が自然だったと考えられるからです。

ここで見えてくるのは、行政上の取り決めと、実際の地理的な条件との違いです。

国家は制度を定めます。

しかし、現場で物資を運ぶ人々は、川の流れや道路、港までの距離を考えなければなりません。

書類上の輸送経路が、そのまま最も合理的な経路とは限らないのです。

これは古代の物流を考えるうえで、とても興味深い問題です。

港は、一か所だけで成り立っていたのか

海岸に一つの大きな港があれば、その地域のすべての船がそこへ集まったのでしょうか。

実際の海上交通は、もっと複雑だったと考えられます。

大型の船が利用できる港。

小さな船が接岸できる浜。

風を避けるための入り江。

川の河口にある荷揚げ場。

こうした場所が、それぞれ異なる役割を持っていた可能性があります。

後の中世の三国湊を見ても、周辺の浦や港が関わり合っていたことが分かります。

三国湊に隣接する崎浦や梶浦なども、海上交通の中で役割を果たしていました。

また、船は風や波の状態によって、予定した港へ入れないこともあったでしょう。

その場合には、安全に停泊できる別の場所を探す必要があります。

ここで重要になるのが、港と港の間の関係です。

一つの大きな港だけではなく、複数の場所を利用できることが、航海の安全につながった可能性があります。

海の道は、一本の線ではなく、大小さまざまな港や浜を結んだ交通の網として考える必要があるのです。

港を維持するには、どんな仕事が必要だったのか

港が機能するためには、船が到着するだけでは足りません。

荷物を積み下ろす人が必要です。

荷物を保管する場所も必要です。

船が壊れれば修理しなければなりません。

航海に必要な水や食料を用意する仕事もあります。

そして、運ばれてきた品物を受け取る相手が必要です。

古代の港で、これらの仕事が具体的にどのように分担されていたのかは、場所によって資料の残り方が異なります。

しかし、港を継続的に利用するには、こうした仕事が何らかの形で行われていたはずです。

さらに、国家が管理する物資を扱う場合には、数量の確認や記録も重要になります。

何が届いたのか。

どれだけ運ばれたのか。

どこへ送るのか。

誰が責任を持って引き渡すのか。

こうした管理ができなければ、大量の物資を安定して輸送することは難しいでしょう。

ここで、港の役割は単なる交通施設を超えていきます。

人と物資が集まり、仕事が生まれ、管理の仕組みが必要になる。

そうして港は、地域社会の重要な拠点になっていったのです。

船を管理する国家と、船を操る人々

古代の国家は、船の管理にも関わっていました。

福井県史には、律令制度における船舶の管理について説明があります。

船の材質。

形状。

積載量。

使用できる状態にあるかどうか。

こうした情報を把握することが求められていました。

また、船が壊れた場合には、修理して利用できる状態を保つ必要がありました。

ここから分かるのは、国家が船を重要な輸送手段として認識していたことです。

さらに709年には、越前・越中・越後・佐渡の船100艘を、北方の軍事行動に関わる拠点へ向かわせるよう命じた記録があります。

これは、北陸地方の船舶が国家の軍事政策にも動員されていたことを示しています。

しかし、ここで考えたいことがあります。

船を動員する命令を出せば、それだけで航海ができるのでしょうか。

実際には、船を操る人々が必要です。

風や波を読む知識も必要です。

船の状態を判断する技術も必要になります。

国家が船を管理することと、実際に船を安全に動かせることは同じではありません。

国家の命令を実現するためには、海を利用してきた人々の技術と経験が不可欠だったのです。

国家は、既存の港を利用したのか

ここまで調べてきたところで、最初の疑問へ戻りましょう。

港は、誰がつくったのでしょうか。

国家が計画的に整備した港もあったでしょう。

行政上の物資輸送のために、新しい施設が設けられたことも考えられます。

しかし、すべての港が国家によって初めてつくられたとは限りません。

海岸に暮らす人々は、国家の制度が整う以前から船を利用していました。

漁を行い、近隣の地域と交流し、品物を運んでいたのです。

そして、そうした活動に適した場所が、後に国家の交通拠点として利用された可能性があります。

ただし、個々の港について、その成立が国家の制度より前だったと証明するには、考古学的な調査が必要です。

港の名前が古い記録に登場することと、その港がいつ成立したかは、別の問題だからです。

重要なのは、港の成立を国家の活動だけから説明しないことです。

人々が利用していた交通の場所に国家が新しい役割を与えた場合と、国家が計画的に整備した場合の両方を考える必要があるのです。

港を押さえることは、何を意味したのか

港が重要な場所になると、その港を管理することには政治的な意味が生まれます。

物資が集まる。

船が出入りする。

遠くの土地から人々がやって来る。

そして、品物の取引が行われる。

こうした場所を管理できれば、人や物資の移動に影響を与えることができます。

実際に、中世の三国湊では、船や荷物に対してさまざまな税や料金が課されていました。

港を利用する人々にとっては、通行や荷役に関わる負担です。

一方、港を管理する勢力にとっては、収入を得る仕組みでもありました。

ただし、中世の港の課税制度を、そのまま古代に当てはめることはできません。

時代によって、政治の仕組みも港の管理方法も異なるからです。

それでも、港を押さえることが経済的・政治的な力につながるという問題は、長い歴史の中で繰り返し現れます。

ここで、以前取り上げた十三湊を思い出してください。

十三湊は中世日本海交易の重要な拠点でした。

しかし、安藤氏がその地を失うと、港町の繁栄も大きく変化しました。

港の地形が残っていても、交易を支える政治や人間関係が変われば、その役割も変わることがあるのです。

港を失うことは、何を失うことなのか

港を利用できなくなったとき、人々は何を失うのでしょうか。

単に船を停泊させる場所だけでしょうか。

それまで利用していた交易相手との関係が変わることもあるでしょう。

物資を運ぶ経路を変更しなければならなくなるかもしれません。

荷物を保管する場所や、船を修理する場所を失うこともあります。

また、港で仕事をしていた人々の生活にも影響が及びます。

港には、さまざまな仕事が集まっています。

船を動かす人。

荷物を運ぶ人。

船や道具を修理する人。

物資を売買する人。

宿泊や食事を支える人。

港が衰退すれば、こうした仕事も変化します。

逆に、新しい交通路が開かれれば、別の場所に人々が集まる可能性があります。

つまり、港の歴史とは、施設がつくられたり壊れたりする歴史だけではありません。

人々の仕事と生活、物資の流れ、人間関係が変化していく歴史でもあるのです。

越は、日本海の交通網の中で何を担っていたのか

ここで、越という地域を広い視点から見てみましょう。

敦賀には、畿内へ向かう交通路がありました。

三国には、九頭竜川流域から物資が集まりました。

加賀には、手取川河口の比楽湊がありました。

越中や越後にも、日本海の輸送に関わる港が存在していました。

これらの港は、単にそれぞれの地域の物資を運ぶだけの場所ではありませんでした。

海路を通じて結ばれ、さらに内陸の河川交通や道路とつながっていました。

そして、その交通網は国家の物資輸送にも利用されました。

ここで重要なのは、越が一つの港だけによって成り立っていたわけではないことです。

地域ごとに異なる地形があり、異なる生産活動がありました。

その土地に適した交通路が利用され、広い交流の仕組みが形成されていったのです。

もちろん、すべての港が同じ時代に同じ程度発達していたわけではありません。

しかし、越の歴史を考えるうえで、複数の港と交通路の関係を調べることは欠かせません。

越の強さを考えるなら、特定の港の繁栄だけではなく、海・川・陸を結びつけた地域全体の仕組みに注目する必要があるのです。

港をつくったのは、誰だったのか

最後に、今回の問いへ戻りましょう。

港は、誰がつくったのでしょうか。

自然の地形が、船を利用できる場所を生み出しました。

そこに人々が集まり、海を利用しました。

品物を運び、交換し、次の土地へ向かいました。

そして、交通の重要性が高まるにつれて、施設が整えられ、管理の仕組みが生まれていきました。

国家が整備した部分もあったでしょう。

地域の有力者が管理した部分もあったでしょう。

そして、実際に港を動かしていたのは、船を操り、荷物を運び、道具をつくり、修理する人々でした。

この歴史を、一人の支配者や一つの国家の仕事だけで説明することはできません。

港は、建物や岸壁だけで成立するものではないからです。

船を動かす技術がある。

物資を集める仕組みがある。

遠くの土地と交流する関係がある。

そして、それらを実際に動かす人々がいる。

そうした条件が重なって、港は機能していきます。

港の本当の価値は、船を停泊させる場所があることだけではなく、その場所を通じて人々と物資を結びつけられることにあったのではないでしょうか。

古代の越にあった港の記録は、そのことを考えさせてくれます。

そして、海と川を利用して移動できることは、交易だけでなく、国家の軍事活動や政治的な支配にも関わっていきました。

それまで人々が利用していた交通路が、国家の支配を広げるための道にもなる。

その変化は、北方の歴史にも残されています。

次の歴史探訪では、再び秋田城へ目を向けます。

古代の城柵は、軍事的な施設であると同時に、人と物資が集まる拠点でもありました。

そこには、北方から毛皮を持って訪れる人々がいました。

そして、その交易を管理しようとする国家の姿もありました。

交易の場所に国家が拠点を設けたとき、人々の交流はどのように変わっていったのでしょうか。

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