楠木正成と足利尊氏。異なる道を選んだ二人は、何を守ろうとしたのか【3】
正成は、本当に尊氏との戦いを望んでいたのか
尊氏が後醍醐天皇方と対立するようになると、正成は朝廷側の武将として尊氏と戦うことになります。
しかし、興味深い記録があります。
正成が、尊氏との和睦を進言したという話です。
『梅松論』や『太平記』などには、尊氏の勢力や武士たちの動向を見極め、正成が戦いだけでは解決できない状況を認識していたことをうかがわせる記述があります。
ただし、これらの史料はそれぞれ成立の事情や立場が異なり、正成が実際にどのような言葉で進言したのかは慎重に考える必要があります。
それでも、正成が尊氏の力を過小評価していなかった可能性は重要です。
正成は、千早城で大軍を相手に戦った人物でした。
相手の兵力が大きいことを認めた上で、自分たちが勝てる条件を探しました。
その正成が、尊氏の勢力を見て、武力による決着だけではない方法を考えたとしても、不思議ではありません。
ここで、一つ疑問が生まれます。
正成は、尊氏を敵として憎んでいたのでしょうか。
それとも、政治的に対立する相手であっても、その能力や影響力を認めていたのでしょうか。
戦う相手の力を認めることと、その相手に従うことは同じではありません。
敵対していても、相手の優れたところを理解することはできます。
そして、必要であれば、戦わずに問題を解決する道を探すこともできるでしょう。
正成の人生を、ただ忠義のために戦い続けた人物として見るだけでは、このような側面を見落としてしまうのではないでしょうか。
九州へ追われた尊氏は、何を考えたのか
1336年初め、尊氏の軍勢は京都へ進みます。
しかし、後醍醐天皇方の軍勢に押し返され、尊氏は九州へ退くことになります。
尊氏にとって、大きな敗北でした。
京都を失い、遠く九州まで退かなければならない。
その時点では、尊氏がその後に室町幕府を築くことになるとは、誰にも分からなかったでしょう。
では、尊氏はなぜ、ここから再び立ち上がることができたのでしょうか。
尊氏は九州で新たな協力者を集め、兵力を立て直していきました。
そして多々良浜の戦いで菊池氏を中心とする後醍醐天皇方の軍勢を破り、再び東へ向かいます。
尊氏自身の政治的な判断や軍事的な能力も重要だったでしょう。
しかし、それだけで勢力を回復できたわけではありません。
九州で尊氏を受け入れた人々がいました。
ともに戦うことを選んだ武士たちがいました。
物資を供給し、軍勢の移動を支える人々も必要だったはずです。
一度敗れた尊氏が再び戦うことができた背景には、そうした人間関係があったのです。
この姿は、1331年に赤坂城を失いながら、再び兵を集めて千早城で戦った正成にも重なります。
正成も尊氏も、一度の敗北ですべてを諦めたわけではありませんでした。
状況を見直し、必要な力を集め、次の方法を考えたのです。
ここに、二人の共通する能力を見ることができるように思います。
湊川で、二人の道が交わった
1336年5月25日。
足利尊氏の軍勢は、海路と陸路から兵庫へ迫りました。
それを迎え撃ったのが、新田義貞と楠木正成の軍勢です。
千早城で戦ったとき、正成は自分たちに有利な地形を利用することができました。
しかし、湊川では状況が違っていました。
足利方は、海と陸の両方から軍勢を進めてきます。
広い範囲で敵の動きに対応しなければならず、味方の軍勢同士が協力することも必要でした。
『太平記』には、正成がこの戦いに先立ち、京都を一度離れ、敵を誘い込んでから攻撃する戦略を進言したという話があります。
しかし、その案は採用されなかったと伝えられています。
もし正成の考えた方法を採用していたら、結果は変わっていたのでしょうか。
尊氏は京都へ入った後、補給に苦しみ、再び敗れていたのでしょうか。
あるいは、正成が考えた以上に多くの協力者を集め、京都を維持することができたのでしょうか。
その答えを出すことはできません。
ただ、湊川では尊氏側が勝利しました。
正成は命を落とし、尊氏は京都へ進みます。
ここで、二人の人生は大きく分かれることになります。
しかし、私は、この戦いを「尊氏の能力が正成を上回った結果」とは考えたくありません。
戦いの結果は、指揮官一人の能力だけで決まるものではないからです。
兵力、地形、補給、協力関係、政治的な状況。
さまざまな条件が重なって、結果が生まれます。
尊氏が勝利したことには、尊氏を支える人々の力がありました。
正成が敗れたことにも、正成一人では動かせない事情がありました。
二人の能力を単純に比べるのではなく、それぞれが置かれた環境を考える必要があるのではないでしょうか。