渤海使はなぜ日本海を渡ったのか――越の港に現れた大陸の使節と、200年間の国際交流
――毛皮、絹、外交文書。古代の日本海は、国と国を結ぶ国際航路だった
西暦776年。
冬の日本海を、一隻の船団が進んでいました。
乗っていたのは、遠く大陸からやって来た渤海国の使節たちです。
その人数は187人。
彼らは日本へ向かっていました。
ところが、航海の途中で激しい暴風に遭遇します。
船の舵や帆が損傷し、予定していた航路を進むことができなくなりました。
そして12月22日。
使節たちは、現在の石川県南部に当たる越前国の加賀郡と江沼郡の沿岸に漂着したと記録されています。
長い航海を経て、ようやく日本列島に到着した人々。
彼らは、どのような思いで陸地を見つめていたのでしょうか。
使節の中には、国王の命令を受けた役人がいました。
航海を担う船乗りもいたでしょう。
そして、遠い日本で交換するための品物も積まれていたはずです。
この人々は、一体どこからやって来たのでしょうか。
なぜ、危険な日本海を越えてまで、日本を訪れたのでしょうか。
実は、奈良時代から平安時代にかけて、日本と最も頻繁に外交使節を交換した相手の一つが、渤海という国だったのです。
今回の歴史探訪では、日本海の向こう側に存在した渤海国と、越の港が担った国際交流の歴史を追いかけます。
日本海の向こうにあった、渤海という国
渤海は、698年に成立した国です。
現在の中国東北部、ロシア沿海地方、朝鮮半島北部などにまたがる広い地域を勢力圏としていました。
建国に関わったのは、大祚栄(だいそえい)という人物です。
渤海は、668年に滅亡した高句麗の歴史を受け継ぐ立場を示す一方、靺鞨(まっかつ)と呼ばれた諸集団とも深い関係を持っていました。
つまり、単一の民族だけによって成り立っていた国として、簡単に説明できるものではありません。
広い領域には、異なる言語や文化、生活様式を持つ人々が暮らしていました。
内陸には農耕を営む人々がいました。
森林や河川の豊かな地域には、狩猟や漁労を行う人々もいました。
さらに、日本海沿岸や河川を通じて、周辺地域と交流する人々も存在していました。
渤海は、こうしたさまざまな地域を結びつけながら発展した国家でした。
その領域は、現在の国境にそのまま当てはめられるものではありません。
しかし、日本列島から海の向こうを見れば、そこには広大な政治的・経済的な世界が存在していたのです。
727年、最初の渤海使が日本へ来た
渤海が日本へ初めて公式の使節を派遣したのは、727年です。
渤海の国王、大武芸が派遣した使節団でした。
一行は国書と贈り物を携え、日本へ向かいました。
しかし、航海は決して順調ではありませんでした。
使節団は出羽国へ到着しましたが、現地で襲撃を受け、使節の一部が殺害されたと記録されています。
それでも、生き残った人々は朝廷との接触を果たしました。
翌728年には、日本側も使節を派遣し、渤海との外交関係が始まります。
ここで、重要な疑問があります。
なぜ渤海は、海を隔てた日本と外交関係を結ぼうとしたのでしょうか。
その理由を考えるには、当時の東アジアの政治情勢を見る必要があります。
唐と新羅に囲まれた渤海の事情
8世紀の東アジアには、大きな政治勢力が存在していました。
中国には唐。
朝鮮半島には新羅。
そして、その北方に渤海がありました。
渤海は、唐や新羅との関係に緊張を抱えていました。
周辺の国々との関係によって、自国の安全や外交上の立場が左右される状況にあったのです。
そこで渤海は、日本との関係を築こうとしました。
日本と結びつくことで、新羅を牽制し、東アジアの政治的な関係を有利に進めようとする狙いがあったと考えられています。
一方、日本の朝廷にも事情がありました。
日本は唐の文化や制度を積極的に取り入れながら、独自の律令国家体制を築こうとしていました。
また、新羅との外交関係には緊張もありました。
そのため、渤海との交流は、日本にとっても政治的な意味を持っていたのです。
ここで見えてくるのは、交易以前の外交的な目的です。
渤海と日本の交流は、最初から単に品物を売り買いするためだけに始まったわけではありませんでした。
海を越えた外交は、東アジアの政治的な力関係とも結びついていたのです。
渤海使は、何度も日本海を渡っていた
最初の来航から、渤海と日本の交流は約200年間続きました。
福井県史によれば、727年から919年までに、渤海使の来航は34回に及びます。
一方、日本からも13回の遣渤海使が派遣されました。
ここで、少し考えてみましょう。
一度だけ船が到着したのであれば、偶然の漂着という可能性も考えられます。
しかし、使節が何度も往来していたということは、海を越えるための仕組みが存在していたことになります。
船を準備する。
航海に必要な食料や水を積む。
季節風や海流を考えて出発する。
日本列島のどの沿岸に到着するかを想定する。
そして、到着後に朝廷へ連絡を届ける。
こうした活動には、さまざまな知識と経験が必要です。
もちろん、毎回同じ港へ到着できたわけではありません。
暴風による漂流もありました。
予定外の地域へ流れ着くこともありました。
それでも、渤海と日本の使節往来は長期間続いたのです。
日本海は、古代の人々にとって越えられない障壁ではなく、危険を伴いながらも利用され続けた国際航路だったのです。
なぜ、越の海岸に到着したのか
渤海使は、日本海沿岸のさまざまな場所へ到着しました。
出羽。
能登。
加賀。
越前。
若狭。
山陰地方。
その中で、越の地域は重要な役割を果たしました。
福井県史には、762年に渤海使の王新福ら23人が越前国加賀郡に滞在した記録が紹介されています。
一行は、その年の10月から都へ向かうまで、3か月以上を加賀郡で過ごしました。
現在の石川県南部に当たる地域です。
ここで注目したいのは、単に船が到着したということではありません。
外国から来た23人を、長期間受け入れていたことです。
宿泊する場所。
食料。
飲み水。
連絡の手段。
そして、都へ向かうための交通路。
これらが必要だったはずです。
さらに、外国の使節を受け入れるには、朝廷の命令を伝えたり、使節の安全を確保したりすることも重要だったでしょう。
越は、大陸からやって来た人々が日本社会と接触する、重要な窓口の一つだったのです。
776年、187人が漂着した海岸
そして、冒頭で紹介した776年の出来事です。
渤海使187人が暴風に遭い、越前国の加賀郡と江沼郡に漂着しました。
187人という人数は、決して少なくありません。
仮に全員を一か所へ収容しようとすれば、かなりの食料と宿泊設備が必要になります。
さらに、船の修理や、都への連絡なども考えなければなりません。
ここで、海岸に暮らしていた人々の存在が重要になります。
船が到着したことを知らせる人。
役所へ連絡する人。
食料を運ぶ人。
必要な物資を準備する人。
そして、使節が滞在するための場所を整える人。
外交の歴史には、国王や使節の名前が残ります。
しかし、外国から来た人々を実際に迎えた地域の人々の働きも欠かせなかったはずです。
渤海との外交は、都の貴族だけによって成り立っていたわけではありません。
日本海沿岸の地域社会が、国際交流を現実のものとして支えていたのです。
港に到着すれば、すぐ都へ行けたのか
外国の使節が日本へ到着しても、そのまま自由に都へ向かえたわけではありません。
まず、どこへ到着したのか。
何人いるのか。
どの国から来たのか。
どのような目的を持っているのか。
こうした情報を朝廷へ報告する必要がありました。
朝廷は、その報告を受けて対応を決めました。
使節を都へ迎えることもあれば、入京を認めないこともありました。
滞在場所や移動経路についても、行政上の取り決めがありました。
この仕組みは、外国の使節を礼遇する一方で、その行動を管理するものでもありました。
つまり、日本海の海岸に船が到着した時点で、国際外交が完成するわけではありません。
そこから、地方の役所と中央の朝廷を結ぶ連絡や物資の供給が必要だったのです。
ここで、越の地理的な特徴が重要になります。
日本海に面した港から、北陸道を通じて都へ向かうことができました。
海の道と陸の道が結びつくことで、遠い大陸から来た使節が朝廷と接触できたのです。
越前にあった、松原客館という施設
福井県敦賀市。
ここには、渤海使を受け入れる施設として知られる松原客館(まつばらきゃっかん)の歴史があります。
松原客館は、外国使節の宿泊や受け入れに関係した施設です。
『延喜式』には、越前国の松原客館を気比神宮司が管理するという規定が残されています。
ここで注目したいのは、神社が外交施設の管理に関わっていたことです。
現在の感覚では、外交は国の機関が担当するものと考えます。
しかし、古代には地方行政や神社、交通施設などが複雑に関わっていました。
また、松原客館の正確な所在地や、成立時期については研究上の問題が残されています。
それでも、外国使節を受け入れる仕組みが敦賀周辺に存在していたことは、古代の越前を考えるうえで重要です。
外国から船が到着する。
海岸で人々を迎える。
必要な物資を整える。
そして、都へ向かう準備をする。
こうした活動が、日本海沿岸の地域で行われていました。
敦賀は、単に大陸から遠く離れた地方の港ではありません。
日本海の向こうから来た人々と、当時の日本の政治の中心を結ぶ場所だったのです。
交易によって、外交の目的が変わり始めた
渤海と日本の外交は、最初の頃、政治的な目的が強いものでした。
しかし、8世紀後半以降になると、交易の重要性が高まっていきます。
渤海からは、毛皮、人参、蜂蜜などの品々が運ばれました。
一方、日本からは、絹や糸、綿などの繊維製品が渡されました。
ほかにも、漆や金属資源などが交易品となりました。
ここで注目したいのは、渤海から来た品物の中に、北方の森林や寒冷地に由来するものが多かったことです。
特に毛皮は、日本の貴族社会にとって価値ある品物でした。
一方、渤海側は、日本の繊維製品などを求めていました。
双方に必要な品物があったからこそ、交易を続ける理由が生まれたのでしょう。
しかし、ここで疑問があります。
渤海の使節が持ってきた毛皮は、誰が採ったものだったのでしょうか。
毛皮を採った人々は、どこに暮らしていたのか
渤海は広い領域を持つ国でした。
その中には、森林や河川、寒冷地で暮らす人々もいました。
貴重な毛皮は、そうした地域から集められた可能性があります。
しかし、渤海使が日本へ持参した毛皮のすべてが、渤海の政治的な中心地の周辺で採れたものとは限りません。
遠方の集団との交易によって集められた品物もあったでしょう。
北方の人々が動物を捕獲する。
毛皮を加工する。
地域の有力者や交易者が集める。
それが別の土地へ運ばれる。
最終的に国家の外交使節によって日本へ届けられる。
このような複数の段階を経た可能性があります。
もちろん、個々の毛皮がどの経路で運ばれたのかまでは分かりません。
それでも、渤海使の交易品が、広い地域の人々の活動によって支えられていたことは重要です。
ここで、これまで調べてきた北海道や樺太、アムール川流域の交流世界を思い出してください。
日本海の北には、国家の境界を越えて人々が移動する世界がありました。
渤海もまた、その大きな交流圏の一部だったのです。
都の貴族が欲しがった、北方の品物
渤海から運ばれる毛皮は、日本の貴族たちにとって高価な品物でした。
特に、貂(てん)などの良質な毛皮が知られています。
ここで興味深いのは、遠くの寒冷地で採れたものが、都の生活や文化と結びついていたことです。
毛皮を採る人々は、必ずしも日本の都について詳しく知っていたわけではないでしょう。
一方、都で毛皮を身につける人々も、採取した人の顔を知っていたとは限りません。
しかし、品物は人から人へと渡され、遠く離れた場所まで運ばれていました。
そこには、多くの人々が関わっています。
狩猟をする人。
加工する人。
運ぶ人。
交換する人。
船を動かす人。
港で荷物を受け取る人。
そして、最終的に品物を使用する人。
遠く離れた土地の暮らしは、交易によって結びついていたのです。
この点は、縄文時代の翡翠や、中世の珠洲焼の移動を考える場合にも共通しています。
時代や品物は異なりますが、一つの品物の背後には、さまざまな人々の仕事が存在していました。
交易が盛んになると、朝廷は制限を始めた
渤海使の来航が続くと、日本の朝廷は、その頻度を制限しようとしました。
798年には、来航を6年に一度とするよう求めています。
さらに9世紀には、12年に一度という制限も示されました。
なぜでしょうか。
外交使節を受け入れるには、多くの費用が必要だったからです。
宿泊施設。
食料。
移動のための人員。
そして、使節に対する贈答品。
国家にとって、外交は大きな負担でもありました。
一方で、渤海側にとっては、日本へ使節を送ることに経済的な利益がありました。
毛皮などを持参し、日本の繊維製品などを得る。
外交という形式の中で、交易が行われていたのです。
そのため、日本側が来航を制限しようとしても、渤海の使節はその後もやって来ました。
ここに、非常に興味深い関係があります。
国家が外交の回数を制限しようとしても、交易によって得られる利益が、人々を海へ向かわせ続けたのです。
ただし、渤海使は国家が派遣する公式の使節でした。
国家の政治的な目的と、経済的な利益が結びついていた点も忘れてはいけません。
交易をする場所は、誰が決めていたのか
渤海使が日本へ到着した後、どこで交易できるかは重要な問題でした。
外国の使節が、自由に国内を移動して商売できたわけではありません。
朝廷は使節の滞在場所や移動を管理していました。
また、品物の交換についても、政治的な取り決めがありました。
しかし、交易が盛んになるにつれて、使節と日本側の人々との経済的な関係は大きくなっていきます。
872年頃には、平安京での交易活動が認められるようになったとされています。
ここで考えたいのは、外交と商業の関係です。
最初は国王の命令を伝えるためにやって来た使節。
その使節が、価値ある品物を運ぶようになる。
やがて、外交使節の来航そのものが、交易の機会として重要になる。
政治的な交流から経済的な交流へ、重点が移っていったのです。
ただし、政治と交易が完全に分かれたわけではありません。
むしろ、両者が重なり合う中で、日本海の国際交流は続いていました。
秋田城にも、渤海の人々が来ていたのか
ここで、越から少し北へ目を向けてみましょう。
現在の秋田市には、古代の秋田城跡があります。
秋田城は、奈良時代から平安時代にかけて、朝廷の重要な拠点でした。
そして、渤海との交流を考えるうえでも注目されています。
秋田市の公式資料によれば、8世紀に来航した渤海使13回のうち、6回が出羽国へ到着した記録があります。
さらに、秋田城跡からは、古代の水洗トイレと考えられる施設が発見されています。
その遺構からは、ブタの食習慣と関係する寄生虫の卵が確認されました。
当時の日本列島では、ブタを日常的に食べる習慣は一般的ではありませんでした。
そのため、大陸から来た人々がこの施設を使用していた可能性が指摘されています。
渤海の使節との関係も考えられているのです。
ただし、寄生虫の卵だけで、その利用者が渤海人だったと確定できるわけではありません。
それでも、この発見は非常に興味深いものです。
外交文書だけではなく、生活の痕跡からも、外国から来た人々の存在を考えることができるからです。
古代の国際交流は、歴史書の中だけではなく、遺跡に残された日常生活の痕跡からも見えてくるのです。
日本海を渡る知識は、誰が持っていたのか
ここまで、渤海と日本の外交や交易を見てきました。
しかし、もう一つ忘れてはいけないことがあります。
それは、船を動かしていた人々の存在です。
渤海から日本へ渡るには、日本海を航海する必要があります。
海の上には、陸上のような道標がありません。
風向き。
潮流。
星や太陽の位置。
陸地の見え方。
季節による気象の変化。
そうした情報を利用しなければ、安全な航海は難しかったでしょう。
しかも、渤海使の船は、いつも目的地へ正確に到着できたわけではありません。
776年のように、暴風によって漂流することもありました。
それでも約200年間、使節の往来が続いたのです。
ここで疑問が生まれます。
航海の知識は、国家の役人だけが持っていたのでしょうか。
おそらく、そうではなかったでしょう。
船を操る人々。
海岸の地形を知る人々。
港と港の間を移動していた人々。
そうした経験が、実際の航海を支えていたはずです。
国家の記録には使節の名前が残ります。
しかし、船を動かした人々の技術や経験もまた、国際交流を成立させるために不可欠だったのです。
越は、単なる通過点ではなかった
ここで、今回の歴史探訪の中心である越へ戻りましょう。
古代の越は、日本海に面した地域でした。
しかし、単に外国の船が通り過ぎる場所だったわけではありません。
渤海使が到着すれば、受け入れる必要がありました。
食料や宿泊場所を確保し、朝廷へ報告し、必要に応じて都へ送り出す。
そこには、地域の人々の働きがありました。
そして、外国との接触によって、新しい品物や知識に触れる機会も生まれたでしょう。
越の人々が直接どの程度の交易を行っていたのかは、時代や地域によって異なります。
しかし、国際交流の実務を担う地域として、越が重要だったことは確かです。
ここで、これまでの歴史探訪とつながります。
縄文時代の糸魚川の翡翠。
古代の日本海沿岸と北方の交流。
阿倍比羅夫の北方遠征。
そして、渤海使の来航。
これらは同じ制度や同じ交易網による出来事ではありません。
しかし、日本海に面した越の地域が、異なる時代に繰り返し広域交流の舞台となったことを示しています。
越の歴史を考えるとき、朝廷の地方行政という視点だけではなく、日本海を通じて外の世界と結びついていた地域として見ることも重要なのです。
渤海が滅んでも、海は消えなかった
渤海と日本の交流は、919年の使節来航まで記録されています。
そして926年、渤海は契丹の攻撃によって滅亡しました。
約200年以上続いた国家の歴史は、ここで大きな転換を迎えます。
しかし、渤海という国家が滅亡したからといって、そこに暮らしていた人々がすべて消えたわけではありません。
渤海の人々の中には、周辺の国々へ移動した人もいました。
また、旧渤海領域では、新しい政治勢力のもとで暮らしを続けた人々もいました。
そして、日本海も変わらずそこにありました。
風が吹き、海流が流れ、人々が船を出すことのできる海です。
国家の名前は変わります。
政治的な支配者も入れ替わります。
しかし、海を利用するための知識や、各地の人々が持っていた技術まで、突然消えるわけではありません。
ここに、交易の歴史を考えるうえで重要な視点があります。
国家は交流を管理することができます。しかし、交流を可能にしていた人々の知識や技術は、国家の成立以前から存在し、その後にも受け継がれることがあるのです。
国際交流の主役は、国王だけではなかった
最後に、776年の海岸へ戻りましょう。
暴風に遭い、越前国の沿岸へ漂着した187人の渤海使。
この出来事は、国家と国家の外交史の一場面として記録されています。
しかし、そこにいたのは外交官だけではありません。
船を動かす人々がいました。
荷物を運ぶ人々がいました。
海岸で船を見つけた人々もいたでしょう。
そして、漂着した人々を受け入れるために働いた地域の人々がいたはずです。
名前が記録されなかった人々の仕事によって、国際交流は成り立っていました。
国王が外交を決めても、船を動かす人がいなければ海は渡れません。
品物を交換する約束があっても、それを生産し、運ぶ人がいなければ交易は成立しません。
港があっても、そこで働く人々がいなければ、外国の使節を受け入れることはできません。
日本海の国際交流を動かしていたのは、国家だけではなかったのです。
海を渡る技術を持つ人々。品物をつくる人々。遠方の相手と関係を築く人々。そうした一人ひとりの仕事が、国と国を結ぶ大きな交流を支えていたのです。
そして、今回の歴史探訪には、もう一つ重要な問いが残っています。
渤海の使節が日本へ到着したとき、越の港には、どのような人々が集まっていたのでしょうか。
外国の言葉を理解する人はいたのでしょうか。
品物の価値を判断する人は、どのように取引していたのでしょうか。
そして、国家の外交とは別に、民間の人々による交流は存在していたのでしょうか。
次の歴史探訪では、越の港で外国の人々を迎えた社会に目を向けます。
古代の港は、単に船が到着する場所ではなく、異なる文化と言葉を持つ人々が出会う場所でもあったのです。