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日高見国は、なぜ征服されなかったのか

2015.10.02

――5万の朝廷軍を迎え撃った人々。阿弖流為と、北上川に残された誇り

西暦789年。

現在の岩手県奥州市にあたる胆沢地方へ、大和の朝廷軍が迫っていました。

動員された兵士は、記録によれば5万2,800人余り。

当時としては、驚くほど大きな軍勢です。

その目的は、朝廷の支配が十分に及んでいなかった胆沢地方を制圧することでした。

兵士たちは北上川に沿って進軍します。

目指す先には、豊かな土地があり、そこには古くから人々が暮らしていました。

そして、侵攻してきた軍勢を迎え撃った一人の人物がいました。

阿弖流為。

後に、東北の人々の誇りとして語り継がれる人物です。

ところが、戦いの結果は意外なものでした。

5万人を超える軍勢を動員した朝廷軍が、地元の人々によって大きな敗北を喫したのです。

いったい、なぜでしょうか。

その答えを探るためには、まず東北という土地を、そこで暮らしていた人々の側から見なければなりません。

日高見国は、豊かな土地だった

『日本書紀』には、日高見国という名前が登場します。

景行天皇27年条では、東国から戻った武内宿禰が、その土地の人々について報告したとされています。

人々は勇敢である。

土地は広く、豊かである。

そして、その土地を攻め取るべきだというのです。

ここで注目したいのは、単に「征服すべき」と記されたことではありません。

侵攻する側が、その土地の豊かさと人々の強さを認めていたということです。

東北には、広大な河川流域と平野、森林、海があります。

北上川は南北に長く流れ、周辺には人々が暮らすための土地が広がっていました。

日本海側には、越から続く海上交通路があります。

太平洋側にも豊かな漁場があり、川を利用すれば内陸へ向かうことができます。

これほど多様な資源に恵まれた地域で、人々が長い年月をかけて独自の暮らしを発展させていても、不思議ではありません。

しかも、北東北には三内丸山遺跡や亀ヶ岡遺跡など、大和王権の成立よりはるか以前の高度な文化が残されています。

もちろん、縄文時代と阿弖流為の時代の間には、数千年の隔たりがあります。

しかし、東北が古くから豊かな土地であり、人々がその環境に合わせて暮らしてきたことは、遺跡からも読み取れます。

朝廷が進出する前から、社会は存在していた

私たちは古代の東北について、朝廷が支配を広げていった歴史として学ぶことがあります。

しかし、考えてみてください。

朝廷の支配が及んでいなかったからといって、そこに社会が存在しなかったわけではありません。

人々は農耕を行い、漁をし、山で働き、家族を養っていました。

鉄器を使う人もいました。

馬を育て、騎乗する技術を持つ人々もいました。

集落同士で物資を交換し、婚姻によって関係を深めることもあったでしょう。

そこには、土地を知る人々がいました。

季節による川の変化を知り、山道を知り、雪の降り方を知る人々です。

外から来た軍勢が地図や案内によって知る土地と、そこで何世代も暮らしてきた人々が知る土地とでは、知識の深さが違います。

そして、人々には守るべき暮らしがありました。

農地。

家族。

仲間。

祖先から受け継いできた土地。

そうしたものを守るために立ち上がった人々を、単に朝廷へ従わなかった集団として見るだけでは、その歴史は十分に理解できないのではないでしょうか。

北上川で起きた、朝廷軍の大敗

789年、征東大将軍の紀古佐美は、大軍を率いて胆沢地方へ進軍しました。

朝廷軍は北上川の両岸を利用し、軍勢を分けて北上しました。

目的地は、阿弖流為たちの拠点に近い巣伏村でした。

ところが、ここで朝廷軍は大きな抵抗を受けます。

地元の人々は、軍勢が進む経路や川の地形を利用して応戦しました。

奥州市埋蔵文化財調査センターの公式解説でも、阿弖流為らが率いた胆沢の人々は、陽動作戦や機動的な戦いによって朝廷軍を撃破したと説明されています。

この戦いは、胆沢の合戦として知られています。

ここで、一つの大きな疑問が生まれます。

なぜ、圧倒的な人数を持つ軍勢が、地元の人々に敗れたのでしょうか。

兵士の数が多いことは、必ずしも勝利を意味しません。

大軍になれば、食料や装備を運ぶ必要があります。

川を渡る場所も限られます。

山や湿地では、大勢の兵士が自由に動けるとは限りません。

一方、その土地に暮らす人々は、普段から地形を利用して生活しています。

しかも、周囲の集落同士が協力すれば、必要な情報を伝え、互いに助け合うことができます。

土地を知り、仲間を信頼し、自分たちの暮らしを守る人々は、決して弱い存在ではなかったのです。

人々は、なぜ阿弖流為についていったのか

ここで、阿弖流為という人物について考えてみます。

残された記録に、彼の生い立ちはほとんど記されていません。

どのような家族に生まれ、何を学び、どのようにして人々をまとめる人物になったのか。

詳しいことは分かっていません。

それでも、朝廷の大軍と戦うために、人々が力を合わせていたことは分かります。

では、彼らはなぜ協力したのでしょうか。

一人の指導者に命令されたからでしょうか。

それだけで、何年にもわたって戦い続けられるものでしょうか。

自分たちの土地を守りたい。

家族や仲間を守りたい。

外から来た支配者に、これまでの暮らしを奪われたくない。

そうした思いを持つ人々が、互いに協力していたと考える方が、人間の行動として自然に見えてきます。

そして、その人々をまとめる人物には、強い人望が必要だったでしょう。

阿弖流為の強さは、一人で何十人も倒すような武勇ではなく、人々を結びつける力にあったのではないでしょうか。

この見方は、古代の共同体を考えるうえでも重要です。

それでも、争いは終わらなかった

789年の敗北によって、朝廷が東北への進出を諦めたわけではありません。

その後も、大規模な軍事遠征が続きました。

794年には、坂上田村麻呂らが参加した遠征が行われます。

801年にも再び軍勢が派遣されました。

阿弖流為らの人々は、長い年月にわたって抵抗を続けました。

しかし、戦いが続けば、そこに暮らす人々にも負担がかかります。

農地が荒れる。

食料が不足する。

家族を失う。

働き手が減る。

さらに、大勢の人々が戦いに駆り出されれば、普段の暮らしを維持することも難しくなります。

奥州市の公式解説では、長引く戦いの末に、胆沢地方の荒廃や食料不足が深刻になっていたことが指摘されています。

ここで考えたいことがあります。

指導者にとって、本当に守りたいものは何だったのでしょうか。

戦いに勝つことでしょうか。

それとも、そこで暮らす人々の命と生活でしょうか。

もし、戦い続けることで多くの仲間が命を失うなら。

最後まで戦うことだけが、指導者の責任だったのでしょうか。

この問いは、阿弖流為の最後の選択を考えるうえで重要になります。

802年、阿弖流為は降伏した

802年。

阿弖流為は、仲間の母礼とともに坂上田村麻呂へ降伏しました。

その後、二人は都へ連れて行かれます。

ここで、奇妙なことが起きます。

坂上田村麻呂は、阿弖流為と母礼を故郷へ帰すよう、朝廷に進言したと伝えられているのです。

長く戦った相手を、なぜ故郷へ帰そうとしたのでしょうか。

単に敵の指導者として処罰するだけなら、そのような提案をする必要はありません。

田村麻呂は、二人を帰郷させることが、胆沢の人々との関係を落ち着かせるうえで有益だと考えたのかもしれません。

長い戦いの中で、阿弖流為たちが地域社会に持つ影響力を理解していたのでしょうか。

しかし、その進言は認められませんでした。

そして802年、阿弖流為と母礼は河内国で処刑されたと記録されています。

現在の大阪府枚方市付近に比定される場所です。

故郷を守るために長く戦った人物が、最後には遠く離れた河内で命を奪われたのです。

この結末を、当時の胆沢の人々はどう受け止めたのでしょうか。

なぜ、故郷へ帰すことが認められなかったのか

ここには、二つの立場がありました。

一つは、長い戦いを終わらせ、東北の人々との関係を安定させたいと考える立場です。

もう一つは、抵抗を率いた人物を処罰することで、朝廷の支配を確かなものにしようとする立場です。

『日本紀略』に残る記述からは、朝廷内でも処遇について異なる判断があったことがうかがえます。

ここで、最初の話へ戻ります。

阿弖流為は、なぜこれほど長く抵抗できたのでしょうか。

もし人望が厚く、地域の人々から信頼されていた人物なら、その存在自体が共同体を結びつける力になります。

そして、新しい支配者にとっては、その人望が大きな問題にもなります。

たとえ軍事的に勝利しても、人々の心まで支配できるわけではありません。

人々が信頼する指導者をどう扱うか。

それは、征服後の地域社会をどう治めるかという問題にもつながります。

戦闘に勝つことと、人々を納得させて共に暮らすことは、まったく違う仕事だったのです。

北方の人々が築いた社会は、消えなかった

802年、阿弖流為が降伏した年に、胆沢城が築かれました。

現在の岩手県奥州市に、その遺跡が残されています。

胆沢城は、朝廷が東北を統治するための拠点となりました。

しかし、城が築かれたからといって、そこに暮らす人々の歴史が突然消えるわけではありません。

それまでの集落も、家族も、農地も残ります。

ものづくりの技術も、地形に関する知識も、人々の中に受け継がれていきます。

政治的な支配の形が変わっても、そこで暮らす人々の生活は続いていくのです。

しかも、朝廷の支配の広がり方は一様ではありませんでした。

地域によって、政治的な関係も、交流のあり方も異なっていました。

ここで重要なのは、日高見国や蝦夷という名前だけで、東北のすべての共同体を一つの国家として考えないことです。

東北には多くの集落があり、それぞれ独自の歴史を持つ人々が暮らしていました。

その人々が、交易や婚姻、祭祀を通じて結びついていた。

そうした広い地域社会の中で、外部勢力への抵抗が生まれたと考える必要があるでしょう。

越から東北へ続く、もう一つの道

ここで、日本海側へ目を向けてみます。

越から東北へは、古くから海の道が続いていました。

縄文時代には、糸魚川産の翡翠が北東北まで運ばれていました。

その後も、日本海沿岸には多くの集落や港が存在していました。

海を通じて物資が運ばれる。

人々が移動する。

技術や情報が伝わる。

そうした交流は、朝廷による東北への進出よりも、はるか以前から続いていたのです。

では、朝廷の勢力が北へ広がったとき、越と東北の人々の関係はどう変わったのでしょうか。

交易相手としての関係が続いたのでしょうか。

地域によっては、移住や避難を支える関係にもなったのでしょうか。

あるいは、朝廷側の進出を支える交通路として利用されることもあったのでしょうか。

ここが重要です。

同じ交通路でも、時代や人々の立場によって、その役割は変わります。

物を運ぶ道。

人を迎える道。

そして、軍勢が移動する道。

越と日高見の歴史をつなぐなら、その変化も追いかけなければなりません。

なぜ、今も阿弖流為の名前が残っているのか

阿弖流為が亡くなってから、約1200年。

その名前は、今も岩手県に残っています。

奥州市には、阿弖流為の歴史を伝える施設があります。

地元では、その人物を顕彰する活動も続いています。

なぜでしょうか。

朝廷軍と戦い、最後には降伏し、処刑された人物です。

勝者の歴史だけを見れば、敗れた側の指導者として終わってしまいます。

しかし、その土地で暮らす人々の視点から見れば、別の評価が生まれます。

家族や仲間を守ろうとした人。

豊かな故郷を守ろうとした人。

圧倒的な軍勢を相手に、長く抵抗した人。

そして、争いを終わらせるために、最後は降伏する道を選んだ人。

敗れたことと、人々からの尊敬を失うことは同じではありません。

むしろ、最後まで共同体を守ろうとした人物だからこそ、その名前が長く語り継がれてきたのではないでしょうか。

ここで、これまでの歴史探訪が再びつながります。

敗れた人々が守り続けたもの

出雲には、国を譲った大国主神の信仰が残っています。

諏訪には、敗れたと伝わる洩矢神の系譜が残っています。

大和には、神武東征以前からの一族につながる饒速日命の信仰が残っています。

そして東北には、阿弖流為の名前が残っています。

時代も地域も異なります。

それぞれの出来事が、同じ形で起きたわけではありません。

しかし、人々の行動を考えると、一つの共通する思いが見えてきます。

自分たちの祖先を、誇りに思っていた。

政治的な支配者が変わっても、家族の歴史が消えるわけではありません。

土地を失っても、そこで暮らしてきた記憶は残ります。

故郷を離れても、祖先を敬う気持ちまで捨てる必要はありません。

その記憶が、神社の祭祀や地域の伝承、地名や古文書として受け継がれてきたのでしょう。

そして、今も人々が現地を訪れ、歴史を調べることによって、その記憶は次の世代へ伝えられていきます。

日高見国の謎は、まだ終わらない

今回、阿弖流為と胆沢の戦いを追いかけてきました。

しかし、日高見国と呼ばれた地域の歴史は、それだけではありません。

もっと古い時代には、北上川流域を中心に、どのような共同体が存在していたのでしょうか。

越から東北へ続く交易網は、いつ、どのように発達したのでしょうか。

そして、朝廷の進出によって、人々の暮らしや移動はどのように変わったのでしょうか。

まだ分からないことが数多く残っています。

ここで、もう一つ気になる場所があります。

多賀城です。

724年、現在の宮城県多賀城市に、朝廷の大きな拠点が築かれました。

そこには、東北の統治を進めようとした側の記録が残されています。

しかし、その城が築かれた場所にも、以前から人々が暮らしていました。

では、多賀城ができることで、周辺の共同体には何が起きたのでしょうか。

外から来た人々と、もともとその土地で暮らしていた人々。

交易、婚姻、政治、そして軍事的な支配。

その関係を調べると、日高見と大和の歴史が、さらに違った姿で見えてくるかもしれません。

第25話「多賀城の向こうにあった国――東北の人々は、どう生きていたのか」へ続きます。

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