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越から日高見へ――日本海を北上した人々の謎

2015.10.01

――巨大な石の輪、精巧な土偶。そして、海の向こうへ続く道

今から約4,000年前。

現在の秋田県北部にあたる土地で、人々が大きな石を運んでいます。

一つ、また一つ。

石は決められた場所へ並べられ、少しずつ巨大な輪を形づくっていきます。

周囲には川が流れ、遠くには山々が見えています。

完成した石の輪は、直径40メートルを超えるほどの大きさになりました。

ところが、驚くのはここからです。

その土地には、同じような石の輪が四つも築かれていたのです。

いったい誰が、何のために、これほど大きな施設をつくったのでしょうか。

一つの集落だけで完成させたのでしょうか。

それとも、離れた土地に暮らす人々が力を合わせたのでしょうか。

この謎を追いかけると、越からさらに北へ続く、古代の人々の交流が見えてきます。

越の向こうには、もう一つの豊かな世界があった

これまでの歴史探訪では、越が日本海を通じて出雲や東北と結びついていたことを追ってきました。

北陸には翡翠や碧玉などの資源があり、その加工技術を持つ人々が暮らしていました。

日本海を北上すれば、現在の新潟県から山形県、秋田県へと沿岸が続きます。

その先には津軽半島があります。

そして、津軽海峡の向こうには北海道が広がっています。

古代の人々にとって、この海岸線は単なる地図上の境界ではありません。

魚介類を得る場所であり、船で移動する道でもありました。

また、川をさかのぼれば内陸へ向かうことができます。

山林には木材や動物、木の実があり、川には魚がいました。

こうした資源を利用しながら、人々は長い年月をかけて集落を築いてきました。

北へ行くほど何もなくなるのではありません。北には北の、豊かな暮らしと文化があったのです。

その姿を具体的に示しているのが、秋田県の伊勢堂岱遺跡です。

四つの巨大な環状列石

秋田県北秋田市の伊勢堂岱遺跡。

約4,000年前、縄文時代後期につくられた祭祀遺跡です。

発掘調査では、四つの環状列石が確認されています。

最大のものは直径約45メートル。

石は規則的に並べられ、周辺には建物跡や貯蔵穴も見つかっています。

さらに、石の輪の下からは人々を葬った墓が発見されました。

つまり、ここは単なる石を並べた広場ではありません。

亡くなった人々を葬り、何らかの儀礼を行った場所だったと考えられています。

秋田県や文化庁の資料では、伊勢堂岱遺跡は、周囲の複数の集落が共同で築き、維持した施設と考えられています。

ここで注目したいのは、その共同作業です。

石を探す。

適切な大きさの石を選ぶ。

運ぶ。

位置を決めて並べる。

何度も作業を繰り返す。

このような大きな仕事を実現するには、計画と協力が欠かせません。

約4,000年前の東北には、複数の集落が協力して大きな施設をつくる社会が存在していたのです。

王の名前も、工事を指揮した人の名前も残っていません。

それでも、彼らが成し遂げた仕事は残されています。

石の輪の中心にあったもの

伊勢堂岱遺跡には、もう一つ興味深い特徴があります。

環状列石がある場所からは、遠くの山並みを眺めることができます。

周辺には、祭祀に使われたと考えられる土偶や石製品も数多く残されています。

ここで考えてみたいことがあります。

人々は、なぜこの場所を選んだのでしょうか。

単に広い土地があったからでしょうか。

山や川との位置関係に意味があったのでしょうか。

あるいは、周囲の集落から人々が集まりやすい場所だったのでしょうか。

亡くなった祖先を祀るために、多くの人々が集まっていたとしたら。

そこでは、祭祀だけでなく、離れた集落同士の交流も生まれていたでしょう。

久しぶりに親族と会う。

別の土地の出来事を聞く。

新しい道具や技術について話す。

そうした機会が、集落同士のつながりをさらに深めていたのかもしれません。

祖先を祀る場所は、人々が再び結びつく場所でもあったのではないでしょうか。

そう考えると、この巨大な石の輪が持っていた意味も違って見えてきます。

さらに北へ。津軽に残された高度な技術

日本海沿岸をさらに北へ進みます。

青森県つがる市。

ここに、亀ヶ岡石器時代遺跡があります。

縄文時代晩期に栄えた文化を代表する遺跡です。

この地域から発見されたものの中に、日本の縄文文化を象徴する有名な土偶があります。

遮光器土偶です。

大きく表現された目。

独特の身体の形。

表面を覆う精巧な文様。

一度見れば忘れられない姿をしています。

しかし、ここで注目したいのは、その不思議な姿だけではありません。

これほど複雑な形と文様を、約3,000年前の人々が実際につくっていたということです。

材料となる粘土を選び、形を整え、文様をつけ、乾燥させ、焼き上げる。

その工程には多くの工夫が必要だったでしょう。

しかも、亀ヶ岡遺跡から発見されたのは土偶だけではありません。

漆塗りの土器。

植物繊維などを利用した籃胎漆器。

玉類や精巧な石製品。

優れた造形と加工技術を伝える品々が残されています。

ここで、古代の東北に対する印象が変わってきます。

東北の人々は、ただ自然から食料を得て暮らしていたのではありません。

材料の性質を理解し、高い技術を使って道具や祭祀の品々をつくっていたのです。

驚くべきことに、ここも共同墓地だった

亀ヶ岡石器時代遺跡には、多数の墓が残されています。

青森県や文化庁の資料によると、台地上には墓域が広がり、周辺の湿地には祭祀に関わる品々が残されていました。

しかも、墓の数に比べて住居の数が少ないという特徴があります。

そのため、この場所は周辺の複数の集落が共同で利用した墓地だったと考えられています。

ここで、秋田の伊勢堂岱遺跡を思い出してください。

あちらでも、複数の集落が協力して大きな祭祀施設を築いたと考えられていました。

そして津軽でも、複数の集落が共同で祖先を葬る場所を維持していた。

離れた集落同士が、祖先を祀るために協力していたという共通点が現れたのです。

これは、政治的な支配とは別の形で地域が結びついていたことを考えるうえで、興味深い発見です。

王や軍隊がなくても、人々は共同で大きな仕事をすることができます。

そして、何世代にもわたって祭祀を続けることもできたのです。

津軽から、海の向こうへ

では、津軽に暮らした人々は、どこまで交流していたのでしょうか。

津軽海峡を挟んだ向こう側には、北海道があります。

現在の青森県と北海道は海によって隔てられていますが、縄文時代の人々はその海を越えて交流していました。

北海道と北東北の遺跡では、共通する特徴を持つ土器や文化が見られます。

世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の公式解説でも、津軽海峡は人々を隔てる障壁ではなく、交流を支える海の道だったことが紹介されています。

ここで思い出すのは、越と出雲の関係です。

海岸線をたどり、船を利用して交流する。

離れた地域に同じような文化が広がる。

材料や技術、人々の知識が移動する。

そうした活動は、東北と北海道の間でも行われていたのです。

日本海の交流は、越で終わるものではありませんでした。さらに北へ続く、人々の広い世界があったのです。

青森には、さらに古い巨大集落が存在した

ここで、時間を少しさかのぼります。

青森市の三内丸山遺跡です。

約5,500年前から約4,000年前にかけて、大規模な集落が営まれていました。

この遺跡では、巨大な木柱を用いた建物跡や、多くの住居跡が発見されています。

さらに、墓地、道路、食料の残骸、さまざまな加工品も見つかりました。

驚くのは、遠方との交流を示す品々です。

翡翠。

黒曜石。

琥珀。

それらは、青森だけですべて産出するものではありません。

遠い土地で得られた材料が、三内丸山まで運ばれていたのです。

なかでも注目したいのが、翡翠です。

日本列島における重要な翡翠の産地は、越の糸魚川周辺でした。

越の地域と東北の人々は、大和王権が成立するはるか以前から、広い交易の中で結びついていたのです。

では、その石を誰が運んだのでしょうか。

そして、石が運ばれた道を、人々自身も移動していたのでしょうか。

物が運ばれた道は、人も通る

翡翠を運ぶには、道を知る必要があります。

山を越える道。

川を利用する道。

日本海を船で進む道。

そして、目的地にいる相手との関係も必要です。

一度の交換だけなら、遠い土地の品物が偶然手に入ることもあるでしょう。

しかし、何世代にもわたって交流が続いていたなら、その背景には人々のつながりがあったはずです。

ここで、これまで考えてきた古代の共同体の姿が浮かび上がります。

一つの集落だけで、すべての生活を完結させる必要はありません。

海辺の集落には海の資源があります。

山間部には山の資源があります。

川沿いには、また違う暮らしがあります。

必要なものを交換し、知識を伝え合う。

そうした交流が長く続けば、遠くの土地にも知り合いや親族ができます。

そして、そのような関係は、災害や争いが起きたときにも役立ったでしょう。

交易の道は、困った人々を迎え入れる道にもなり得たのです。

日高見国という名前が現れる

ここで、さらに時代を進めます。

『日本書紀』には、日高見国という名が登場します。

景行天皇の時代、武内宿禰が東国から戻り、東方には勇敢な人々が暮らす広大で肥沃な土地があると報告したという記述です。

しかも、その土地を攻め取るべきだという言葉まで残されています。

ここで、これまで見てきた東北の遺跡を思い出してみてください。

縄文時代から大きな集落がありました。

精巧な土器や漆器をつくる技術がありました。

複数の集落が協力して祭祀施設や墓地を維持していました。

遠方との交易も行われていました。

そうした長い歴史を持つ地域を、後に大和の王権はどのように見ていたのでしょうか。

東北の人々は、大和の支配が及ぶ以前から、自分たちの暮らしと文化を築いていたのです。

日高見国という名前が、どの範囲の地域を指していたのかについては、古い記録にも違いがあります。

ただ、この名の背景に、東方の広い地域で暮らしていた人々の歴史があったことは、考えておきたいところです。

なぜ、豊かな土地が狙われたのか

『日本書紀』の日高見国に関する記述には、興味深い特徴があります。

そこで暮らす人々について、勇敢であると説明していることです。

そして、土地が広く肥沃であることも記しています。

これは重要です。

もし人々が弱く、簡単に征服できる土地だったなら、わざわざその勇敢さを記す必要があったのでしょうか。

さらに、土地の豊かさが記されていることにも注目したいところです。

広い土地。

豊かな自然。

食料を得ることのできる環境。

そうした条件があるからこそ、多くの人々が暮らし、集落が発展していたのでしょう。

そして、外から来た勢力にとっては、その豊かさが魅力的に見えたのかもしれません。

ここで、一つの大きな疑問が生まれます。

東北の人々は、なぜ長い年月にわたって、外から来た勢力に抵抗することができたのでしょうか。

その答えを考えるうえで、縄文時代から続く地域の暮らしや、人々の結びつきは重要な手がかりになるはずです。

越と日高見は、どのようにつながっていたのか

ここまで、越から東北へ向かう道を追ってきました。

糸魚川の翡翠。

秋田の環状列石。

津軽の亀ヶ岡文化。

青森の三内丸山遺跡。

そして、海の向こうの北海道。

それぞれの地域には、独自の文化と技術がありました。

しかし、同時に、遠方との交流を示す資料も残されています。

ここで重要なのは、すべてを一つの巨大な国家として考えることではありません。

異なる土地に暮らす人々が、互いの文化を守りながら結びついていたということです。

それぞれの集落には家族があり、仲間があり、祖先から受け継いだ暮らしがありました。

そのつながりが広がれば、一つの集落ではできないことも実現できます。

巨大な祭祀施設をつくる。

遠方から材料を運ぶ。

新しい技術を学ぶ。

困った人々を迎え入れる。

そうした協力が、長い年月をかけて広がっていったのでしょう。

そして、後の時代に政治的な争いが起きたとき、この交流網が人々の移住や避難を支えた可能性があります。

越は、どのような役割を果たしたのか

ここで、再び越へ戻ります。

越は日本海沿岸の広い地域に位置し、山陰と東北の間を結んでいました。

翡翠や碧玉の加工技術があり、大陸との交流を考えるうえでも重要な港がありました。

さらに内陸へは、信濃や近江につながる道がありました。

この位置関係を考えると、越は単なる通過地点ではなかったのではないでしょうか。

海と山の道が交わり、多くの地域の人々と交流できる場所。

それは、物資だけでなく、人や技術、情報が集まる場所でもあったはずです。

そして、以前から交流している人々がいれば、争いや災害によって故郷を離れた人々を受け入れることもできたでしょう。

越は、独自の暮らしと技術を持つ多くの共同体が、広大な交流を支えていた地域だったのではないでしょうか。

もしそうなら、越の歴史を詳しく知ることは、日本列島の古代社会を理解するうえで欠かせないことになります。

そして、北方にはまだ別の歴史がある

今回の探訪では、縄文時代の秋田、津軽、北海道へと進みました。

そこには、大和王権が成立するよりはるか以前から発達した文化が残されていました。

しかも、その文化は地域ごとに違いながら、海や川、山道を通じて結びついていました。

では、後に日高見国と呼ばれた地域で暮らしていた人々は、どのように独立性を守っていたのでしょうか。

大和の政治勢力が東北へ進出したとき、人々はどのように対応したのでしょうか。

そして、なぜ東北には、後の時代まで強い地域勢力が残り続けたのでしょうか。

縄文時代から続く共同体の結びつきは、後の政治的な抵抗や地域社会にも影響していたのでしょうか。

ここから先は、さらに時代を進める必要があります。

古代の東北には、阿弖流為をはじめ、大和の軍勢と戦った人々の歴史が残されています。

また、その時代にも、北陸と東北の間で人々の交流が続いていました。

次回は、いよいよ日高見国と呼ばれた地域の、より新しい時代へ踏み込みます。

第24話「日高見国は、なぜ征服されなかったのか――東北に残された抵抗の歴史」へ続きます。

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