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諏訪に隠された古い神――洩矢神と守矢氏が守り続けたもの

2015.09.30

――鉄の輪と藤の枝。敗れた一族が千年を超えて守った秘密

長野県の諏訪湖。

周囲を山々に囲まれたこの土地には、全国に広がる諏訪信仰の中心、諏訪大社があります。

その祭神として知られるのが建御名方神です。

『古事記』の国譲りの物語では、出雲の大国主神の子として登場し、建御雷神との争いに敗れて諏訪へ向かったと伝えられています。

ところが、諏訪の古い伝承を調べると、不思議な出来事に出会います。

諏訪へやって来た建御名方神を、別の神が迎え撃ったというのです。

その名は、洩矢神。

そして二人は、奇妙なものを手にして争いました。

一方は、鉄の輪。

もう一方は、藤の枝。

なぜ、鉄の武器を持つ側が敗れ、藤の枝を持つ側が勝ったのでしょうか。

しかも、驚くのはその後です。

敗れた側の一族が、諏訪の重要な祭祀を千年以上にわたって受け継ぐことになったのです。

この奇妙な伝承には、いったいどのような歴史が隠されているのでしょうか。

建御名方神が来る前から、諏訪には人々がいた

まず、諏訪という土地を見てみましょう。

諏訪湖の周囲には、広い水辺があり、そこへ流れ込む河川があります。

周辺には森林や山地が広がり、魚、動物、木の実など、さまざまな資源を得ることができます。

さらに、霧ヶ峰や和田峠周辺には、良質な黒曜石の産地があります。

前回調べたように、諏訪の黒曜石は縄文時代から遠くの地域へ運ばれていました。

越の糸魚川周辺で採れた翡翠も、信濃へ届いていました。

つまり、この地域には、大和に王権が形成されるはるか以前から、人々の暮らしと交流が存在していたのです。

そこには当然、土地を熟知し、自然の中で生活する技術を持った人々がいたでしょう。

山道を歩き、石を採り、道具をつくる。

川や湖で食料を得て、家族や仲間と暮らす。

そして、祖先から受け継いだ信仰を大切にしていたはずです。

建御名方神が諏訪に来たという伝承を考えるなら、まず、そこに以前から暮らしていた人々の存在を忘れてはいけません。

その人々につながる神として語られているのが、洩矢神です。

鉄の輪と藤の枝の戦い

1356年に成立した『諏訪大明神絵詞』には、建御名方神と洩矢神の争いが記されています。

諏訪へ入ろうとする建御名方神。

それを阻もうとする洩矢神。

二人は川辺で争ったと伝えられています。

洩矢神が持っていたのは鉄の輪。

一方、建御名方神が手にしていたのは藤の枝でした。

戦いの結果、洩矢神は敗れ、建御名方神が諏訪の神として鎮まったというのです。

ここで不思議なのは、その道具の組み合わせです。

鉄と藤。

硬い金属と、しなやかな植物。

どちらも人々の暮らしに関わる材料ですが、性質はまったく違います。

もし単純な武力の強さを示す物語なら、鉄を持つ側が勝ちそうにも思えます。

それなのに、伝承では反対の結果になっています。

この争いは、本当に一人の神と一人の神が武器を持って戦ったという話なのでしょうか。

それとも、異なる文化や信仰を持つ人々の関係が、象徴的な物語として語られたのでしょうか。

ここで一つ、興味深いことがあります。

鉄を知っていたのは、どちらだったのか

洩矢神が持っていたと伝わる鉄の輪。

鉄という材料に注目すると、古代の諏訪の人々がどのような技術に関わっていたのかが気になってきます。

ただし、伝承に鉄の輪が登場するからといって、洩矢神の時代をそのまま鉄器時代の特定の年代に置くことはできません。

大切なのは、後世の人々がこの争いを語り継ぐとき、鉄という材料を象徴的に用いていたことです。

鉄の加工には高度な技術が必要です。

材料を手に入れ、熱を加え、加工し、目的に合う道具へ仕上げる。

現代の製造業にも通じる技術です。

一方、藤は古くから縄や編物などに利用できる植物です。

柔軟で、曲げても折れにくい。

暮らしの中で、それぞれ異なる役割を持つ材料でした。

鉄の輪と藤の枝という組み合わせに、古い技術文化の記憶が残っているのでしょうか。

これは、諏訪周辺の鉄器や祭祀遺物の分布とも照らし合わせてみたい謎です。

しかし、さらに驚くのは、この戦いの結末ではありません。

敗れたはずの洩矢神の一族が、諏訪から消えていなかったのです。

敗れた一族が、神事の中心に残った

洩矢神の子孫と伝えられる守矢氏。

この一族は、諏訪上社の神長官という重要な役職を、長い年月にわたって担ってきました。

神長官は、諏訪上社の祭祀に深く関わる役職です。

茅野市の公式資料によれば、守矢家は中世から明治時代まで神長官を務めていました。

そして、その屋敷の跡に現在の神長官守矢史料館があります。

ここで立ち止まって考えてみたいことがあります。

土地をめぐる争いに敗れた側の一族が、なぜ、その土地の重要な祭祀を担い続けたのでしょうか。

敗れた人物の一族なら、すべての地位を失っていてもおかしくありません。

ところが守矢氏は、祭祀を通じて大きな役割を持ち続けました。

これは、単なる服従の物語とは違って見えます。

もともとその土地で暮らしていた人々には、長く受け継がれてきた信仰と祭祀があった。

後から新しい勢力が入ってきても、その知識や伝統を簡単に置き換えることはできなかったのではないでしょうか。

あるいは、古い一族の信仰を認めることが、新しくやって来た人々との共存につながったのでしょうか。

政治的な力関係が変わっても、土地の信仰を守る人々の役割は失われなかった。

守矢氏の歴史からは、そのような姿が浮かんできます。

1,600点以上の古文書が残されていた

ここで、さらに驚く事実があります。

現在の神長官守矢史料館には、守矢家に伝わった1,618点もの古文書が収蔵されています。

その中には県宝や市指定文化財も含まれています。

鎌倉時代以来の記録が残されているのです。

内容の中心は諏訪の祭礼に関するものですが、中には中世の信濃の政治や社会を知るうえで重要な資料もあります。

さらに、武田信玄など戦国時代の有力者に関わる文書も残されています。

考えてみてください。

一つの家が、何百年にもわたって祭祀を担い、その記録を守り続けてきた。

戦争もありました。

支配者も変わりました。

政治の仕組みも変化しました。

それでも、文書は受け継がれてきたのです。

守矢家は、神事だけではなく、その土地の歴史の記憶も守ってきた一族だったのです。

ここで興味深いのは、現代の私たちが古代の神々を知る手がかりの一部が、こうした一族によって残されてきたことです。

もし古い記録を守る人々がいなければ、諏訪の歴史は今よりさらに分からなくなっていたでしょう。

御柱祭の陰に残る、もう一つの祭祀

諏訪大社といえば、御柱祭が有名です。

巨大な木を山から切り出し、人々が力を合わせて運ぶ祭りです。

この祭りを見ると、諏訪の人々の結びつきの強さを感じます。

しかし、諏訪上社には、もう一つ重要な祭りがあります。

御頭祭です。

神長官守矢史料館では、この御頭祭の復元展示が行われています。

現在の御頭祭は、毎年4月15日に上社前宮で行われています。

中世には、信濃各地の豪族に祭礼の担当が割り当てられていたとされます。

ここが興味深いところです。

一つの集落だけで行う祭りではありません。

地域の有力な人々が役割を分担し、祭礼を支えていたのです。

さらに、守矢史料館には鉄鐸に関わる古文書や、守矢家に伝わる鉄鐸も残されています。

鉄鐸とは、金属製の鈴のような祭祀具です。

ここでも、金属と信仰が結びついています。

洩矢神の伝承に登場する鉄の輪。

守矢家に伝わった鉄鐸。

これらが直接同じ起源を持つと決めることはできません。

しかし、諏訪の古い祭祀を考えるうえで、鉄という材料が繰り返し現れることは興味深いものです。

神話だけではなく、祭礼の道具や古文書にも、土地の歴史を読み解く手がかりが残されているのです。

御柱を動かしたのは、誰だったのか

巨大な木を切り出し、運ぶ。

その仕事には多くの人々が必要です。

山の地形を読む人。

木を選ぶ人。

綱を扱う人。

重い木の動きを見極める人。

周囲の安全を確認する人。

そして、多くの人々の動きをまとめる人。

そこには、現代の私たちが考える以上の実務能力が求められます。

巨大な木は、人間の都合どおりには動きません。

少し動けば、大きな力が生じます。

地面がぬかるんでいれば、状況も変わります。

そのたびに判断し、協力する必要があります。

ここで思い出されるのが、縄文時代から自然の中で働いてきた人々の姿です。

山を知り、木材を扱い、仲間と共同作業を続けてきた人々。

諏訪の祭りには、土地で暮らしてきた人々の技術と協力の力が、今も表れているのではないでしょうか。

祭りは単なる行事ではありません。

地域の人々が何を大切にし、どのように協力してきたのかを伝える文化でもあるのです。

諏訪へやって来た人々は、何を求めたのか

ここで、建御名方神の物語へ戻ります。

『古事記』では、建御名方神は出雲での争いに敗れ、信濃の諏訪へ向かったと記されています。

しかし、なぜ諏訪だったのでしょうか。

前回調べたように、越と諏訪には縄文時代から翡翠と黒曜石の交流がありました。

出雲と越にも、婚姻の伝承や墳丘墓の共通性が残されています。

そして『先代旧事本紀』には、建御名方神を大国主神と越の沼河比売の子とする系譜があります。

ここまで重ねると、ひとつの筋道が浮かびます。

出雲と越。

越と諏訪。

この三つの地域には、古くから交流がありました。

もし建御名方神の伝承の背後に、人々の移動があったなら。

その人々は、まったく知らない土地へ向かったのではなく、以前から交流のあった地域を目指したのかもしれません。

そして、諏訪にはすでに人々が暮らしていました。

新しく移動してきた人々を、すべて無条件に受け入れたとは限りません。

暮らす土地や祭祀のあり方をめぐって、話し合いや対立が起きることもあったでしょう。

建御名方神と洩矢神の争いは、そのような人々の出会いと関係の変化を伝えているのではないでしょうか。

なぜ、敗れた神を忘れなかったのか

ここで、もう一度最初の謎に戻ります。

洩矢神は敗れたと伝えられています。

しかし、その信仰は残りました。

守矢氏は重要な祭祀を担い、代々文書を守り続けました。

なぜでしょうか。

その答えは、思っているより単純なのかもしれません。

自分たちの祖先だったからです。

外から新しい勢力が来たとしても、それまでの家族や一族の歴史が消えるわけではありません。

祖先から受け継いだ土地の知識。

祭祀の方法。

人々が助け合ってきた記憶。

そうしたものを守ることは、一族の誇りだったのでしょう。

そして、後から来た人々にとっても、その土地の人々との協力は必要だったはずです。

農耕を行うにも、土地の地形を知らなければなりません。

山から木材を運ぶにも、道を知る人が必要です。

地域の祭りを続けるにも、昔からの習慣を知る人々の力が欠かせません。

そのような関係が生まれれば、勝者と敗者という単純な区分では語れない、新しい共同体が築かれていくでしょう。

祖先を守ることが、新しい時代をつくった

諏訪の歴史には、異なる人々の信仰が重なっています。

建御名方神。

洩矢神。

守矢氏。

そして、諏訪に暮らしてきた数え切れないほど多くの人々。

それぞれが、土地の歴史に関わってきました。

政治的な力関係は時代によって変わります。

しかし、人々が祖先を敬う気持ちは、簡単に消えるものではありません。

だからこそ、古い神々の名が残り、祭礼が続き、文書が守られてきたのでしょう。

そして、このことは諏訪だけに限りません。

出雲には大国主神の信仰が残っています。

大和には饒速日命に関わる伝承が残っています。

越には、大陸や山陰、東北と結びつく古い文化が残されています。

各地の神社や祭祀を一つずつたどると、勝敗の記録とは別の、人々の歴史が見えてきます。

戦いの勝敗は一時の出来事でも、祖先への誇りは何世代にもわたって受け継がれる。

そんな歴史が、今も各地に残されているのではないでしょうか。

そして、次の謎が現れる

ここまで、越と諏訪の交流を追いかけてきました。

糸魚川の翡翠。

諏訪の黒曜石。

出雲と越の婚姻伝承。

建御名方神の移動。

洩矢神と守矢氏の祭祀。

別々に見えていたものが、少しずつ同じ地図の上に現れてきました。

しかし、まだ解けない謎があります。

諏訪の人々は、東北や関東の人々と、どこまでつながっていたのでしょうか。

黒曜石は、遠く東北まで運ばれています。

越には、日本海を北上する道がありました。

信濃からは、千曲川や内陸の道を通じて北方へ向かうこともできます。

では、古代の人々は、そうした道を利用してどこまで移動していたのでしょうか。

そして、後の時代に争乱から逃れた人々がいたなら、彼らはどこで新しい共同体を築いたのでしょうか。

次回は、さらに北へ。

越から東北へ続く日本海の道を追いかけます。

そこには、日高見国と呼ばれた地域の、さらに古い歴史が待っています。

第23話「越から日高見へ――日本海を北上した人々の謎」へ続きます。

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