越から東国へ――山を越えて広がった古代の交流
――翡翠と黒曜石。二つの石が語る、数千年前の人々の約束
今から約5,000年前。
現在の新潟県糸魚川周辺で、一人の職人が美しい緑色の石を手にしています。
翡翠です。
その石は、遠くの山々を越えた先に暮らす人々へ届けられるのかもしれません。
一方、現在の長野県の諏訪地方。
高原の山中では、別の人々が黒く光る石を採っています。
黒曜石です。
鋭い刃をつくることができる、暮らしに欠かせない石材でした。
翡翠を求める人々。
黒曜石を必要とする人々。
両者が出会い、互いに持っているものを交換したとしたら。
そんな古代の交流を想像させる遺跡が、実際に残されています。
驚くことに、越の翡翠と諏訪の黒曜石は、それぞれ相手の地域から発見されているのです。
これは、いったい何を意味するのでしょうか。
今回の歴史探訪では、日本海から険しい山々を越え、信濃、飛騨、そして東国へ広がった人々の交流を追いかけます。
そこには、海の民と山の民がいた
越と信濃。
現在の地図では、新潟県と長野県に分かれています。
しかし、古代の人々にとって、県境など存在しません。
そこにあったのは、山と川、森林、湖、そして人々の暮らしでした。
糸魚川周辺では翡翠が採れる。
諏訪周辺では黒曜石が採れる。
両方とも貴重な石材ですが、利用する目的は違います。
翡翠は美しい装飾品や祭祀に関わる品々に利用されました。
黒曜石は、石鏃や石刃などの道具をつくるために使われました。
自然の中で暮らしていた人々にとって、それぞれ必要なものが違っていたのです。
では、諏訪の人々が翡翠を欲しいと思ったら、どうしたでしょうか。
反対に、越の人々が良質な黒曜石を必要としたら。
互いに交流して、必要なものを交換する。
現代の私たちが考える貿易ではなく、日々の暮らしの中にある自然な行動だったのではないでしょうか。
海と山で異なる資源が得られることが、人々を結びつける理由になっていたのです。
糸魚川の遺跡から、諏訪の黒曜石が出てきた
新潟県糸魚川市の長者ケ原遺跡。
縄文時代中期を中心に栄えた、翡翠の加工で知られる大規模な集落です。
ここでは、翡翠の原石や加工途中の品々、玉づくりに使われた道具が発見されています。
ところが、注目したいのは翡翠だけではありません。
長者ケ原遺跡からは、大量の黒曜石も出土しています。
新潟県の文化情報資料によると、約3,700平方メートルの調査範囲から、およそ1,000点の黒曜石が発見されました。
しかも、産地分析によって、その多くが長野県の諏訪・霧ヶ峰周辺から運ばれたものと分かっています。
ここで、思わず立ち止まります。
越の翡翠加工集落に、遠く信濃の黒曜石が大量に届いていたのです。
では、反対方向はどうだったのでしょうか。
調べてみると、さらに面白いことが分かりました。
諏訪には、越の翡翠が届いていた
諏訪の霧ヶ峰周辺では、糸魚川産と考えられる翡翠が出土しています。
一方、糸魚川の長者ケ原遺跡では、諏訪産の黒曜石が大量に見つかっている。
つまり、物資の流れは一方向だけではなかったのです。
越から信濃へ。
信濃から越へ。
双方の地域に、相手の土地で得られる貴重な石が残されていました。
新潟県の文化情報資料では、翡翠と黒曜石が交換されていた可能性が指摘されています。
この関係を考えると、ある疑問が生まれます。
それほどの交流を、誰が、どのように維持していたのでしょうか。
道を知る人々が必要です。
危険な場所を避け、川を渡り、山を越える技術も必要です。
そして、目的地には石を受け取る相手がいなければなりません。
もし交流が何世代にもわたって続いていたなら、両地域の人々は互いの土地や暮らしをよく知っていたでしょう。
親族になった人々もいたかもしれません。
石の産地を調べることで、古代の人々の関係まで見えてくるのです。
諏訪の山には、193か所もの採掘坑があった
ここで、さらに驚く遺跡が登場します。
長野県下諏訪町の星ヶ塔黒曜石原産地遺跡。
標高1,500メートルを超える山中に残された、縄文時代の黒曜石採掘遺跡です。
下諏訪町教育委員会による調査では、193か所の黒曜石採掘坑が確認されています。
193か所。
これほど多くの場所で、人々が黒曜石を採っていたのです。
しかも、採掘方法は時代によって変化していました。
石のあり方を見極め、地面を掘り、必要な材料を取り出す。
簡単な作業ではありません。
地形を知り、石の性質を理解し、道具を使いこなす必要があります。
さらに、採掘した石を集落へ運ぶ仕事もあります。
その石は、諏訪の周辺だけで使われていたわけではありません。
理化学的な産地分析によって、信州産の黒曜石が関東、北陸、東海、東北へと広く供給されていたことが確認されています。
ここで考えたいのは、採掘坑の数だけではありません。
これほど多くの石を採り、遠方へ運ぶ活動が、長い年月にわたって続いていたということです。
そこには、採掘する人、加工する人、運ぶ人、受け取る人がいたはずです。
古代の諏訪にも、高い技術と広域的な交流を支える社会が存在していたのです。
もう一つの道が、飛騨へ続いていた
ここで、舞台を西へ移してみます。
現在の岐阜県飛騨地方。
北アルプスの山々に囲まれた地域です。
この地方にも、縄文時代から人々が暮らしていました。
そして飛騨市の上岩野遺跡からは、非常に興味深い品々が発見されています。
北陸系の土器。
糸魚川周辺の翡翠。
長野県和田峠・霧ヶ峰周辺の黒曜石。
さらに、飛騨地方で得られる下呂石。
異なる地域に特徴を持つ石材や土器が、同じ遺跡に残されていたのです。
ここで、地図を思い浮かべてみてください。
北には越。
東には信濃。
西には飛騨。
そこからさらに進めば、美濃や近江へも道が続きます。
飛騨は、越と信濃、さらに西日本へつながる山の道の交差点だったのではないでしょうか。
そして、これらの交流は大和王権が成立するはるか以前から存在していました。
なぜ、人々は険しい山を越えたのか
現代の私たちなら、何百キロも離れた場所へ行くとき、自動車や鉄道を利用します。
しかし古代の人々は、自分の足で山を越えていました。
重い荷物を背負い、川を渡り、険しい道を進む。
どうして、そこまでして移動したのでしょうか。
もちろん、必要な石材を手に入れるためという理由はあったでしょう。
けれども、交流が続くうちに、人々の関係は変わっていきます。
知り合いができる。
親しい仲間ができる。
婚姻によって家族が増える。
自分の生まれた土地とは別の場所にも、頼れる人々が暮らすようになる。
そこまで関係が深まれば、石を交換するだけでなく、互いに助け合うこともできたでしょう。
道があったから交流したのではなく、交流する人々がいたから、その道が使われ続けた。
そんな考え方もできるのではないでしょうか。
そして、この古い交流の道は、後の時代になると、別の意味を持ち始めます。
争いが起きたとき、その道はどう使われたのか
ある日、故郷で争いが起きたとします。
家族や仲間と暮らし続けることが難しくなった。
できることなら、多くの人々が命を落とす戦いを避けたい。
そのような状況で、人々はどこを目指すでしょうか。
まったく知らない土地でしょうか。
それとも、昔から交流してきた人々の暮らす土地でしょうか。
もし越と信濃の間に古くから交流があり、飛騨や近江ともつながっていたなら。
争いを避けて移住する人々にとって、その道は大きな意味を持ったはずです。
行き先には、自分たちの暮らしを理解してくれる人々がいる。
新しい土地で働き、食料を得る方法を知っている人々がいる。
そして、技術や知識を持って移住すれば、受け入れる側にも新しい仲間が増えます。
平和な時代に物を交換していた道が、争乱の時代には、人々の命を守る道にもなったのではないでしょうか。
この視点で伝承を読み直すと、また別の謎が浮かび上がります。
なぜ、建御名方神は諏訪へ向かったのか
『古事記』の国譲りの物語。
大国主神の子である建御名方神は、争いに敗れ、信濃の諏訪へ向かったと伝えられています。
ここで、これまで調べてきた土地の関係を思い出してください。
出雲と越には、古い婚姻の伝承がありました。
越と諏訪には、翡翠と黒曜石の交流がありました。
さらに、飛騨にも両地域の石材が残されていました。
ここまで分かると、一つの疑問が生まれます。
建御名方神の諏訪への移動は、古くから知られていた交流路を利用したものではなかったのでしょうか。
もし伝承の背後に、一族やその信仰を受け継ぐ人々の移動があったとしたら。
その人々は、何も知らない土地へ突然逃れたのではなく、交流のある地域を目指したのかもしれません。
しかも、諏訪には、建御名方神が来る以前から暮らしていた人々の信仰も残されています。
洩矢神と守矢氏の伝承です。
新しい土地へ移動した人々と、以前からその土地で暮らしていた人々。
その両者がどのような関係を築いたのか。
ここには、まだ解き明かしたい歴史があります。
山を越えていたのは、石だけではない
もう一度、飛騨の上岩野遺跡へ戻ります。
北陸系の土器。
糸魚川の翡翠。
諏訪の黒曜石。
飛騨の下呂石。
それぞれの品物には、産地があります。
しかし、出土した場所は同じです。
ここから分かるのは、地域ごとに分かれていた資源が、人々の交流によって一つの場所へ集まっていたということです。
そして、そのような交流を支えていたのは、一人の王や特別な英雄だけではなかったでしょう。
山を歩く人。
船を操る人。
石を加工する人。
道具をつくる人。
家族や仲間と暮らす人。
そうした多くの人々が、長い年月をかけて地域同士の関係を築いてきたのです。
古代の交流網は、地図に線を引くだけでは見えてきません。
その道を歩き、働き、暮らしていた人々を考えることで、初めて本当の姿が見えてくるのではないでしょうか。
そして、さらに驚くべき道があった
今回、長野県の資料を調べていると、もう一つ面白い事実がありました。
諏訪周辺で採れた黒曜石は、関東や北陸だけでなく、東北の三内丸山遺跡からも見つかっています。
長野県の資料では、千曲川を利用して日本海側へ出て、さらに船で北方へ運ばれた経路も考えられています。
ここで、これまでの歴史探訪が再びつながります。
越から諏訪へ。
諏訪から越へ。
越から日本海を北上し、東北へ。
つまり、山の道と海の道がつながり、遠く離れた地域の人々を結びつけていたのです。
しかも、その交流は国家が成立する以前から続いていました。
ここで、最初の疑問に戻ります。
越は、なぜこれほど多くの地域とつながっていたのでしょうか。
海に面していたから。
豊かな資源があったから。
加工技術を持つ人々がいたから。
それだけではないのかもしれません。
越には、海と山を通じて遠方の人々と交流する、長い歴史があったのです。
そして、そうした交流が積み重なることで、互いに信頼する人々の関係が生まれていったのでしょう。
まだ見えていない、巨大なつながり
出雲。
吉備。
越。
飛騨。
諏訪。
近江。
そして東北。
これらの地域を、現代の都道府県で分けて考えると、それぞれ遠く離れた土地に見えます。
しかし、古代の人々は海や川、山道を利用して行き来していました。
その交流は、翡翠や黒曜石の産地分析によって、現在でも確かめることができます。
そして、その道を人々が移動していたなら、物だけでなく、技術、文化、祭祀、祖先の記憶も運ばれていたはずです。
ここで、さらに大きな謎が生まれます。
これほど広い地域が古くからつながっていたなら、越はその中でどのような役割を果たしていたのでしょうか。
単なる石材の産地だったのでしょうか。
それとも、日本海と内陸を結ぶ、人々の交流の中心だったのでしょうか。
そして、後の時代に政治的な争いが起きたとき、この古い交流網は人々の移住や共同体の再編にどのような影響を与えたのでしょうか。
答えを探すために、次は諏訪のさらに深い歴史へ進みます。
そこには、建御名方神が来る以前から祀られていた神がいます。
そして、敗れたと伝わる一族が、長い年月にわたって重要な祭祀を担い続けてきました。
第22話「諏訪に隠された古い神――洩矢神と守矢氏が守り続けたもの」へ続きます。