多賀城の向こうにあった国――東北の人々は、どう生きていたのか
――城ができる前から暮らしていた人々。そして、土の中から現れた千年前の書類
西暦724年。
現在の宮城県多賀城市にあたる場所で、大きな工事が進められていました。
丘陵を整え、柱を立て、門をつくり、役所となる建物を建てていく。
やがて、周囲を大きな塀で囲んだ施設が姿を現しました。
多賀城です。
奈良の朝廷が東北地方の統治を進めるために設けた、政治と軍事の重要な拠点でした。
ところが、ここで一つの疑問があります。
多賀城が築かれるまで、この土地には誰も暮らしていなかったのでしょうか。
もちろん、そうではありません。
実際に発掘調査を行うと、城が築かれる以前から、周辺には大きな集落が存在していたことが分かりました。
しかも、その人々が使っていた木の道具や農具まで、土の中から現れたのです。
さらに時代が進むと、驚くようなものまで発見されました。
古代の役人が書いた文書です。
なぜ、その文書が土の中に残っていたのでしょうか。
そして、そこには何が書かれていたのでしょうか。
今回は多賀城を築いた支配者ではなく、その周囲で暮らし続けてきた人々から、東北の歴史を考えてみます。
城ができる前から、100軒以上の住居があった
多賀城の南側には、山王遺跡や市川橋遺跡があります。
宮城県の発掘調査資料によると、山王遺跡の八幡地区では、古墳時代後期の7世紀頃に、100軒以上の竪穴住居跡が見つかっています。
多賀城が築かれるよりも前の時代です。
もちろん、100軒すべてが同時に存在したという意味ではありません。
それでも、この地域に多くの人々が暮らし、長い時間をかけて集落を営んでいたことが分かります。
住居跡からは、土器だけでなく、木製の椀、櫛、下駄、鋤、鍬などが発見されています。
ここで、暮らしの姿が見えてきます。
農地を耕す人。
木を加工して農具をつくる人。
食事に使う器をつくる人。
衣服や身だしなみを整える人。
家族と暮らし、次の世代へ技術を伝える人。
多賀城ができる以前から、そこには働き、食べ、家族を育てる人々の社会が存在していたのです。
では、なぜ人々はその場所を選んだのでしょうか。
湿地の中で、人々は土地を選んでいた
多賀城周辺の地形を調べると、興味深い特徴があります。
川の近くには低湿地があり、その間に周囲より少し高い土地が存在していました。
発掘された古い住居は、こうした微高地に集中しています。
これには理由があったはずです。
雨が降れば、低い場所には水がたまります。
川が増水すれば、周囲が浸水することもあります。
一方、少し高い土地なら、住まいをつくるのに適しています。
近くに川があれば水を利用でき、周囲の平地では農耕もできます。
当時の人々は、そうした土地の特徴を理解して住む場所を選んでいたのでしょう。
古代の人々にとって、地形を読むことは生活を守るための基本的な能力だったのです。
しかも、川は移動のための道にもなります。
農作物や木材を運ぶことができれば、周囲の集落との交流にも役立ちます。
ここで考えてみたいことがあります。
多賀城を築いた人々は、なぜこの地域を選んだのでしょうか。
高台があり、周囲には農耕を営む集落があり、川を通じて物資を運ぶこともできる。
すでに人々が暮らし、食料や技術を得られる土地だったことも、拠点を置くうえで重要だったのではないでしょうか。
724年、外から新しい支配の仕組みがやって来た
多賀城の創建については、興味深い記録が残されています。
多賀城碑です。
奈良時代の762年に建てられた石碑で、現在は国宝に指定されています。
碑文には、724年に大野東人が多賀城を設置し、762年に藤原恵美朝獦が修造したことが刻まれています。
驚くのは、創建年代だけではありません。
この石碑には、平城京や蝦夷国などから多賀城までの距離も記されています。
つまり、多賀城がどのような場所と関係する拠点だったのか、距離を使って示していたのです。
ここで、地元の人々の立場になって考えてみましょう。
それまで集落で暮らし、農耕やものづくりを続けていた。
ところが、近くの丘陵に大きな役所ができる。
外から役人が来る。
兵士も来る。
道路が整備され、物資が運び込まれる。
人々の生活は、どのように変わったのでしょうか。
新しい仕事が増えた人もいたでしょう。
建築や運搬に携わった人もいたはずです。
一方で、税や労役、土地の管理など、新しい負担が生じた人々もいたと考えられます。
城ができるということは、建物が増えるだけではありません。周囲の人々の暮らし方そのものが変わるということです。
そして、その変化は遺跡にも残されています。
集落の姿が、町へと変わっていった
多賀城ができた後、その南側の地域では、人々の住む場所がさらに発展していきました。
山王遺跡や市川橋遺跡では、奈良時代の住居や建物、溝、塀などが発見されています。
さらに8世紀後半から9世紀にかけて、東西・南北に延びる道路が整備されました。
道路によって土地が区画され、建物が規則的に並ぶようになります。
まるで碁盤の目のような町並みです。
役所に関わる人々だけでなく、職人や商人、農耕を営む人々も暮らしていたでしょう。
ここで興味深いのは、発掘された生活用品の多様さです。
農具。
食器。
木製品。
さまざまな土器。
さらに、高級な陶器や海外に由来する品物まで見つかっています。
大勢の人々が暮らす町には、食料が必要です。
住まいも必要です。
建物をつくる職人や、道具を修理する人々も必要です。
朝廷が城を築いたとしても、その場所を実際に支えたのは、そこで働き、暮らす人々だったのです。
しかも、この地域には、さらに興味深いものが残されていました。
土の中から、千年以上前の役所の書類が現れた
山王遺跡や市川橋遺跡からは、漆紙文書と呼ばれるものが発見されています。
漆紙文書。
聞き慣れない名前かもしれません。
これは、古い文書が思いがけない形で残されたものです。
当時、紙は貴重な材料でした。
使い終わった文書も、そのまま捨てずに再利用することがありました。
その用途の一つが、漆を入れた容器の蓋です。
漆が乾かないよう、古い文書を蓋紙として使ったのです。
すると、紙に漆が染み込みます。
その結果、普通なら腐って失われるはずの紙が、地中で保存されることがありました。
役目を終えた古い書類が、漆によって千年以上も残されていたのです。
なんとも不思議な話です。
しかも、文字が薄くなった資料でも、赤外線撮影によって読める場合があります。
そして、そこに書かれていた内容を調べると、当時の社会が具体的に見えてきました。
書類には、人々と物資を管理した記録があった
文化庁や宮城県の資料によると、多賀城周辺から出土した漆紙文書には、戸籍や計帳、帳簿、役所の連絡文書などが含まれています。
つまり、古代の人々の情報や、役所の仕事に関する記録です。
そこには、物資の管理や交通制度に関係する内容もあります。
ここで、重要な変化が見えてきます。
以前からその土地で暮らしていた人々が、役所の制度によって把握されるようになっていたのです。
人口を調べる。
必要な労働力を確保する。
物資を集める。
輸送や施設の維持に人員を割り当てる。
そうした仕事が、文書によって管理されていました。
これは、共同体同士が日常的な交流によって結びついていた社会とは、異なる統治の仕組みです。
人々の暮らしが、遠くの政治的な中心からも管理されるようになっていったのです。
しかし、管理の仕組みをつくっただけで、人々の暮らしをすべて思いどおりにできたのでしょうか。
そこに、次の謎があります。
米は、どこから運ばれてきたのか
多賀城跡からは、多数の木簡も発見されています。
木簡は、文字を書いた木の札です。
荷物に付ける札として使われたものもあります。
宮城県の資料では、多賀城跡などから出土した450点の木簡が重要文化財に指定されています。
その中には、坂東諸国から送られた米に付けられた荷札や、兵士に関係する記録も含まれています。
ここで考えてみてください。
米を別の地域から集める。
倉庫で保管する。
兵士や役人へ配る。
そのためには、米をつくる人、運ぶ人、管理する人が必要です。
そして、遠方から大量の食料を運ぶには、道路や河川などの交通路を維持しなければなりません。
軍勢を動かすことだけが、支配の仕事ではなかったのです。
多賀城の維持には、遠く離れた地域の食料生産と、多くの人々の仕事が必要だった。
ここで、前回の阿弖流為の戦いを思い出してみます。
朝廷が大軍を動員しても、その軍勢を長期間維持するには食料が必要です。
一方、地元の人々は、その土地の川や山道、食料を得る場所を熟知しています。
数の多さだけで、戦いの結果が決まらなかった理由も、こうした暮らしの条件から考えることができます。
そして780年、多賀城が襲われた
ここで、歴史が大きく動きます。
西暦780年。
多賀城の北方、現在の宮城県栗原市周辺には、伊治城という城がありました。
767年に造営された、朝廷の東北統治を進める拠点です。
その伊治城で、衝撃的な事件が起きました。
伊治公呰麻呂による反乱です。
呰麻呂は朝廷側の官人として活動していた人物でした。
ところが780年、朝廷の役人を殺害し、反乱を起こします。
そして、その動きは多賀城にも及びました。
多賀城は襲撃され、焼失したと伝えられています。
これは何を意味するのでしょうか。
朝廷が城を築き、役人を置き、地域の有力者を統治の仕組みに組み込んでいた。
それでも、大きな反乱が起きたのです。
地位を与え、制度に組み込んだからといって、その人物や地域社会が新しい支配体制に納得していたとは限らなかった。
ここに、古代の統治を考えるうえで重要な問題があります。
なぜ、朝廷に仕えていた人物が反乱を起こしたのか
呰麻呂の行動を考えるとき、単に裏切った人物として扱うだけでは、その背景が見えてきません。
呰麻呂は、地域の人々と朝廷の政治的な仕組みの間にいた人物です。
朝廷側の役職を持ちながら、地域社会との関係も持っていた。
そのような立場で、何が起きたのでしょうか。
朝廷の政策への不満だったのでしょうか。
役人同士の対立だったのでしょうか。
あるいは、地域の人々の暮らしに関わる問題があったのでしょうか。
反乱に至った事情を考えるとき、当時の政治的な緊張や、人々の関係を見なければなりません。
そして、もう一つ重要なことがあります。
城を築いて支配を広げることと、そこに暮らす人々との信頼関係を築くことは、同じではなかった。
建物をつくることはできます。
法律や制度を整えることもできます。
しかし、人々の信頼を得るには、別の努力が必要です。
相手の暮らしを理解すること。
約束を守ること。
一方的な負担を押し付けないこと。
それは、現代の社会でも変わらない問題でしょう。
多賀城の外には、別の世界が広がっていた
多賀城は東北統治の中心として築かれました。
しかし、東北のすべての共同体が、最初から多賀城の制度によって動いていたわけではありません。
北には胆沢地方がありました。
さらに北には、もっと広い地域が続いています。
日本海側には越から続く交通路があり、太平洋側にも海や河川を利用する人々が暮らしていました。
地域ごとに自然環境は違い、交流関係も異なっていました。
そして、もともと暮らしていた人々には、それぞれの歴史がありました。
祖先から受け継いだ土地。
山や川の知識。
農耕やものづくりの技術。
家族や仲間との結びつき。
朝廷の記録には、城の建設や軍勢の移動が詳しく書かれています。
しかし、その周囲で暮らす人々の毎日は、別の歴史でもあったはずです。
多賀城という一つの拠点を見ただけで、東北全体の歴史を理解することはできないのです。
ここで、再び越の存在が気になってきます。
越と東北を結ぶ道は、どう変わったのか
越から東北へ続く日本海沿岸には、古い交流の歴史がありました。
縄文時代には、糸魚川の翡翠が北東北へ運ばれていました。
その後も、人々は海や川を利用して移動し、技術や文化を伝えてきました。
ところが、朝廷による東北への進出が進むと、その交通路は別の役割も持つようになります。
兵士を運ぶ。
食料を運ぶ。
役人や使節が移動する。
そして、地域の情報を中央へ伝える。
これまで人々の生活や交易を支えてきた道が、政治や軍事にも利用されるようになっていったのです。
ここで考えてみたいことがあります。
古くからその道を知り、使っていた人々は、新しい支配体制の中でどのような立場になったのでしょうか。
その知識を生かして働く人もいたでしょう。
新しい交流の機会を得た人もいたはずです。
一方、従来の暮らしや自由な往来が変化した地域もあったと考えられます。
同じ道であっても、それを誰が、何のために利用するかによって、意味は大きく変わります。
ここに、越と東北の歴史をつなぐもう一つの問題があります。
土の中に残されたのは、支配者だけの歴史ではなかった
ここまで、多賀城とその周辺の遺跡を追ってきました。
城が築かれる前から、人々は集落で暮らしていました。
農具をつくり、農地を耕し、川や湿地を利用して生活していました。
その後、多賀城が築かれ、役人や兵士がやって来ました。
道路が整備され、町が発展し、文書による管理が進みました。
そして780年には、大きな反乱が起きました。
ここで、もう一度最初の発見へ戻ります。
100軒以上の竪穴住居跡。
木製の農具。
使い終わった紙に漆が染み込んで残った古文書。
それらは、別々の時代の遺物です。
しかし、一つの場所で重ねて見ると、大きな歴史が浮かんできます。
政治的な支配体制が変わっても、そこで暮らす人々の仕事と生活は続いていた。
そして、その暮らしを支えるためには、多くの人々の知恵と協力が必要だったのです。
城を築いた人よりも、古くからいた人々
私たちは、歴史を有名な人物の名前から覚えることがあります。
多賀城を築いた大野東人。
城を修造した藤原恵美朝獦。
東北で戦った阿弖流為。
そうした人物の名前は、歴史を知るうえで重要です。
しかし、その人々が登場する以前から、土地には暮らしがありました。
名前の残されていない人々が、農地を開き、道具をつくり、集落を守り続けていたのです。
歴史の出発点は、城が築かれた年ではありません。その土地で人々が暮らし始めた、もっと古い時代にあるのです。
多賀城の歴史は、そのことを教えてくれます。
そして、東北にはまだ別の大きな謎があります。
朝廷が進出した後も、各地の共同体はどのような関係を保っていたのでしょうか。
日本海を通じて越とつながっていた人々は、どのような役割を果たしていたのでしょうか。
さらに北へ向かうと、独自の社会を持つ人々の歴史が続いています。
そこには、北東北から北海道へと広がる、もう一つの大きな交流圏がありました。
第26話「海峡は国境ではなかった――津軽と北海道を結んだ古代の人々」へ続きます。