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海峡は国境ではなかった――津軽と北海道を結んだ古代の人々

2015.10.04

――越の翡翠は、なぜ津軽海峡を渡ったのか。そして北の人々は何を送り返したのか

今から約5,000年前。

現在の青森県にあたる土地で、一人の職人が美しい緑色の石を磨いています。

手にしているのは翡翠。

ところが、この石には不思議なことがあります。

この土地では採れないのです。

はるか南西、現在の新潟県糸魚川周辺から運ばれてきた石でした。

職人は石を磨き、穴を開け、美しい装飾品へと仕上げていきます。

完成した品物は、どこへ向かうのでしょうか。

近くの集落でしょうか。

それとも、さらに北へ向かうのでしょうか。

その先には、津軽海峡があります。

そして海峡の向こうには、北海道が広がっています。

驚くべきことに、越の翡翠は実際に北海道まで運ばれていたのです。

しかも、その流通を調べると、津軽の三内丸山遺跡が重要な役割を果たしていた姿が見えてきます。

これほど古い時代、人々はどのように海峡を越え、何を交換していたのでしょうか。

そして、なぜ遠く離れた越と北海道がつながっていたのでしょうか。

津軽海峡は、人々を隔てる境界だったのか

現在、青森県と北海道の間には津軽海峡があります。

地図で見ると、本州と北海道は別々の大きな島です。

しかし、縄文時代の人々にとって、その海はどのような存在だったのでしょうか。

北海道・北東北の縄文遺跡群の公式資料には、興味深い説明があります。

北海道南部と北東北では、海峡を挟んで共通する土器文化が広がっていたというのです。

その代表が、円筒土器文化です。

北海道南部の遺跡と、青森県の遺跡。

離れた場所にありながら、共通する特徴を持つ土器が見つかっています。

これは何を意味するのでしょうか。

人々は海峡を越えて移動していた。

土器の製作方法や文化が伝わっていた。

そして、互いの暮らしを知る人々がいた。

そうした交流が長く続いていたと考えられます。

現代の地図では海が地域を分けています。しかし、縄文時代の人々にとって、津軽海峡は交流するための道でもあったのです。

三内丸山遺跡には、遠方の石が集まっていた

青森県の三内丸山遺跡。

縄文時代前期から中期にかけて栄えた、大規模な集落です。

ここからは、住居跡や墓、大型の建物跡、さまざまな生活用品が発見されています。

しかし、今回注目したいのは建物の大きさだけではありません。

この遺跡に、遠く離れた二つの地域の石が集まっていたことです。

一つは、糸魚川周辺の翡翠。

もう一つは、長野県の霧ヶ峰や和田峠周辺に産地を持つ黒曜石です。

越と信濃。

数百キロも離れた地域の石材が、津軽の集落まで運ばれていました。

ここで思い出したいのが、これまでの歴史探訪です。

越では翡翠が採れる。

諏訪周辺では黒曜石が採れる。

両地域には、古くから石材の交流がありました。

そして、その二つの石が、今度は津軽に集まっていたのです。

越・信濃・津軽。この三つの地域は、縄文時代からつながっていました。

しかも、話はここで終わりません。

津軽では、翡翠を加工していた

青森県の三内丸山遺跡に関する研究資料では、翡翠と黒曜石の流通に違いがあったことが指摘されています。

黒曜石については、完成した石器などを入手し、ほかの地域へ分配する中継交易が考えられています。

一方、翡翠については、原石や加工途中の材料を受け取り、三内丸山で完成品に加工していたという考察が示されています。

ここが重要です。

越から完成した品物が届いただけではありません。津軽にも、それを加工する技術を持つ人々がいたのです。

材料を選ぶ。

形を整える。

石の性質に合わせて加工する。

失敗を避けながら仕上げる。

そうした仕事をできる人々が、三内丸山に暮らしていたことになります。

さらに、その完成品が北海道方面へ流通した可能性も指摘されています。

つまり、越の資源が津軽へ届き、そこで新しい製品となり、さらに北へ運ばれていく。

一つの集落だけでは完結しない、広いものづくりのつながりです。

ここで疑問が生まれます。

津軽の職人は、その加工技術をどこで身につけたのでしょうか。

越から来た職人に教わったのでしょうか。

完成品を見ながら、自分たちで加工方法を工夫したのでしょうか。

あるいは、技術者自身が各地を移動していたのでしょうか。

その答えを知ることは、古代のものづくりの歴史を考えるうえでも興味深い課題です。

北海道には、独自の巨大集落があった

津軽海峡を越えて、北海道へ向かいます。

函館市の大船遺跡。

縄文時代中期を中心とする大規模集落です。

ここからは、多数の竪穴住居跡が発見されています。

なかには、深く掘り込まれた大型の住居もありました。

食料の残骸からは、海と森林の両方の資源を利用していたことが分かります。

魚介類。

動物。

木の実。

それぞれの季節に得られる食料を利用しながら、人々は暮らしていました。

さらに、函館市の垣ノ島遺跡には、長い年月にわたる人々の生活と祭祀の痕跡が残されています。

ここでも、古代の人々は単に自然の中で生活していただけではありません。

住まいを築き、道具をつくり、祖先を祀る場所を整えていました。

北海道には、本州の人々がやって来る以前から、独自の文化と技術を発展させてきた共同体が存在していたのです。

そして、その人々は津軽海峡を通じて北東北とも交流していました。

海峡を越えたのは、品物だけだったのか

翡翠や黒曜石が北海道まで届いた。

土器の文化にも共通性があった。

ここまで分かれば、次に考えたいのは人々の移動です。

品物を運ぶには、運び手が必要です。

船を使うには、航海の知識が必要です。

そして、目的地には品物を交換する相手がいなければなりません。

もし同じ相手と長く交流していたなら、互いの暮らしを知るようになったでしょう。

婚姻によって親族になることも考えられます。

そして、親族が海峡の向こう側に暮らしていれば、そこはまったく知らない土地ではなくなります。

海を隔てた二つの地域に、互いを頼れる人々が暮らしていた。

そんな関係が生まれていても、不思議ではありません。

では、その人々は何を交換していたのでしょうか。

翡翠や黒曜石だけだったのでしょうか。

ここから、さらに興味深い世界が見えてきます。

北から南へ運ばれたもの

交易は一方向だけでは成り立ちません。

北海道や北東北にも、本州のほかの地域で必要とされる資源がありました。

海産物。

動物の毛皮。

鳥の羽根。

骨や角を利用した道具。

地域によって得られるものは違います。

そして、その違いがあるからこそ、人々は必要なものを交換します。

後の時代、北海道と東北の交易では、鉄製品と海産物、毛皮、鳥の羽根などが行き来していたことが、東京国立博物館や北海道の歴史資料に紹介されています。

ここで重要なのは、北方の人々が、ただ本州から品物を受け取る側ではなかったということです。

北には北の資源があり、技術があり、暮らしがありました。

それぞれが必要なものを交換することで、交流が続いていたのです。

そして、この関係は縄文時代が終わっても、形を変えながら続いていきます。

北海道では、縄文の後にも独自の文化が続いた

本州で弥生文化が広がり、水田稲作や鉄器の利用が進んでいく頃。

北海道では、異なる生活文化が続いていました。

それが続縄文文化です。

東京国立博物館の資料によると、続縄文文化は紀元前4世紀頃から7世紀頃まで続いたとされています。

漁労、狩猟、採集を主要な生業とし、河川や海岸沿いを中心に集落が営まれていました。

これは、文化が発展していなかったという意味ではありません。

北海道の人々は、その土地の気候や自然環境に合わせて、独自の暮らしを続けていたのです。

そして、7世紀頃からは擦文文化が広がっていきます。

擦文文化では、本州の土師器に影響を受けた土器や、鉄製品の利用が見られます。

さらに、東北との交易が盛んになり、鉄器や加工技術が伝わっていきました。

一方、北海道からは海産物や毛皮、鳥の羽根などが本州へ運ばれていました。

本州と北海道では異なる文化が続いていても、人々の交流は途切れていなかったのです。

そして、北海道には別の北方文化もあった

ここで、さらに地図を広げてみます。

北海道の北には樺太があります。

東には千島列島があります。

さらに、その先にはアムール川の河口域を含む大陸北東部があります。

この広い地域には、オホーツク文化と呼ばれる独自の文化が存在していました。

海獣狩猟や漁労を中心とし、北海道のオホーツク海沿岸にも広がっていた文化です。

北海道博物館の資料では、オホーツク文化は北方から南下し、擦文文化と並存する時期があったことが説明されています。

ここで、これまでの歴史探訪を思い出してください。

越から出雲へ。

越から東北へ。

津軽から北海道へ。

そして、北海道からさらに北方へ。

日本列島の交流は、日本海や津軽海峡で終わっていたわけではありません。

その先には、大陸北東部まで広がる人々の世界が存在していたのです。

しかも、それぞれの地域には独自の暮らしと文化がありました。

単に一つの国家が北へ勢力を広げたという話ではありません。

異なる地域の人々が、資源や技術を交換しながらつながっていたのです。

越と北海道の間には、何があったのか

ここで、再び越へ戻ってみます。

越は、日本海沿岸の広い地域に位置していました。

西へ進めば出雲。

東北へ向かえば津軽。

さらに海峡を越えれば北海道。

そして内陸には、信濃や近江へ続く道がありました。

これまでの発掘資料から、糸魚川産の翡翠が北東北や北海道まで運ばれていたことが分かっています。

しかし、その背景にある人々の関係については、さらに深く調べる余地があります。

翡翠を運んだのは、どんな人々だったのでしょうか。

津軽で翡翠を加工した技術者は、どこでその技術を学んだのでしょうか。

北海道の人々は、何を交換品として送り出していたのでしょうか。

そして、異なる地域の人々が何世代にもわたって交流していたなら、その中でどのような親族関係が生まれていたのでしょうか。

越は、北方の人々と西日本の人々をつなぐ、大きな交流の中継地だったのではないでしょうか。

そう考えると、越の存在はさらに重要なものになります。

もし争いが起きたら、人々はどこへ向かったのか

交易によって人々がつながる。

婚姻によって親族が増える。

技術や知識が伝わる。

そうした関係が長く続けば、遠く離れた地域にも頼れる人々が暮らすようになります。

では、ある土地で争いが起きたら、どうなるでしょうか。

家族や仲間を守るため、故郷を離れる人々もいたでしょう。

そのとき、以前から交流していた土地は、大きな意味を持ちます。

海を渡れば、知り合いがいる。

山を越えれば、親族がいる。

新しい暮らしを始められる場所がある。

そんな関係があれば、人々は移住という選択をすることができます。

そして、新しい土地へ移った人々は、技術や文化、祖先への信仰も持っていきます。

古くからの交易路が、争乱の時代には人々を守る道にもなったのではないでしょうか。

これは、越から東北、北海道へ続く交流を考えるうえでも重要な視点です。

海峡を越えても、人々の歴史は続いていた

北海道と本州の間には、現在も津軽海峡があります。

しかし、そこには長い交流の歴史がありました。

縄文時代の土器文化。

翡翠や黒曜石の流通。

続縄文文化と本州の交流。

擦文文化と東北の交易。

そして、さらに北方のオホーツク文化。

これらを並べると、一つの大きな歴史が浮かび上がってきます。

日本列島の人々は、政治的な境界ができるよりはるか以前から、海を越えて交流していたのです。

その交流を支えたのは、船をつくり、海を渡り、食料を得て、道具を加工する人々でした。

名も残されていない多くの人々の仕事が、遠く離れた地域同士を結びつけていたのです。

そして、そうした交流は、時代が変わっても続いていきました。

では、古代の人々が持っていた海上交通の知識は、後の時代にどのように受け継がれたのでしょうか。

越から東北、北海道へ続く道は、どのような人々によって維持されていたのでしょうか。

さらに、中央の政治勢力が北方へ進出したとき、その交流網はどう変わったのでしょうか。

ここには、まだ大きな謎が残っています。

次回は、海の向こうにあったもう一つの世界へ。

樺太、アムール川流域、そして大陸北東部。

日本列島から外へ向かう人々と、海の向こうからやって来る人々の歴史を追いかけます。

第27話「北海道の向こうにあった世界――樺太・アムール川と古代日本海の交流」へ続きます。

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