琵琶湖を支配したのは誰か――近江に集まった技術と人々の謎
――湖底に沈んだ集落と、山中に隠された24個の銅鐸
滋賀県のほぼ中央に広がる琵琶湖。
日本最大の湖として知られるこの場所には、古代から多くの人々が暮らしていました。
魚を捕る人。
船をつくる人。
木材を加工する人。
湖岸の湿地を利用して農耕を営む人々。
現在では道路や鉄道が湖を取り囲んでいますが、古代の人々にとって、琵琶湖そのものが大きな交通路だったのでしょう。
ところが、この湖には不思議な歴史があります。
人々が暮らしていた集落が、現在の湖底から発見されているのです。
さらに、湖の東側にある山からは、24個もの銅鐸が発見されました。
そして、その近くには、大型建物が円を描くように配置された、奇妙な弥生時代の遺跡まで存在します。
いったい、古代の近江では何が起きていたのでしょうか。
今回は、敦賀から琵琶湖へ続く古い道をたどりながら、その謎を追いかけます。
琵琶湖は、巨大な水の道だった
前回、敦賀と琵琶湖を結ぶ交通路を調べました。
日本海から敦賀湾へ入る。
そこから山道を越え、琵琶湖の北岸へ向かう。
湖に到着すれば、船を使って南へ進むことができます。
もちろん、湖上の移動にも危険はあります。
風が強まれば波が高くなり、天候によっては船を出せない日もあったでしょう。
しかし、重い荷物を陸上で運び続けることに比べれば、船で大量の物資を運べることには大きな利点があります。
しかも、琵琶湖の周囲には多くの川が流れ込み、湖岸には集落がありました。
北陸から届く海産物や石材。
近江で生産される農作物や木製品。
さらに、南へ向かえば山城や大和へ続く交通路があります。
琵琶湖は、単に大きな湖だったのではなく、遠く離れた地域の人々を結びつける交通の中心だったのです。
では、古代の近江には、どのような人々が暮らしていたのでしょうか。
湖底から現れた、縄文人の食卓
滋賀県大津市の粟津湖底遺跡。
ここでは、現在の琵琶湖の湖底から縄文時代の貝塚が見つかっています。
貝塚からは、セタシジミを中心とする大量の貝殻が発見されました。
さらに、魚の骨、動物の骨、クリやトチなどの木の実も出土しています。
この発見は、当時の人々の食生活を考えるうえで重要です。
湖では貝や魚を得る。
周囲の森では木の実を集め、動物を捕る。
人々は湖と山の両方の恵みを利用しながら暮らしていました。
しかも、現在は湖底になっている場所に、その生活の痕跡が残されています。
ここで、一つの疑問が生まれます。
当時の湖岸は、現在と同じ場所にあったのでしょうか。
湖の水位が変わる。
川から土砂が流れ込む。
地震によって土地が沈む。
そうした変化が起きれば、集落の立地や人々の暮らしも変わります。
滋賀県の水中遺跡調査では、湖底に沈んだ集落や、地震による液状化の痕跡も確認されています。
つまり、現在の湖岸線だけを見て古代の交通路を考えることはできません。
古代の人々は、今とは違う琵琶湖の風景の中で生活していたのです。
水田をつくった人々の技術
時代を弥生時代へ進めます。
現在の近江八幡市安土町に、大中の湖南遺跡があります。
この遺跡は、昭和39年から始まった内湖の干拓事業によって発見されました。
つまり、長く水辺に覆われていた土地の下から、古代の集落が姿を現したのです。
発掘調査では、住居跡、水田跡、農業用の水路、そして大量の木製農具が見つかっています。
特に注目したいのが、水田の構造です。
人々は杭や矢板を使って、水路や畦畔を整えていました。
水を引く。
必要な場所へ流す。
土が崩れないように支える。
水の流れが変われば、施設を直す。
そうした仕事を繰り返しながら、農地を維持していたのです。
これは、単に稲を育てるだけの作業ではありません。
土地の状態を読み、水を管理し、木材を加工する土木技術が必要だったのです。
しかも遺跡からは、完成した農具だけでなく、加工途中の木製品も発見されています。
つまり、農具を使う人々だけでなく、農具をつくる職人も暮らしていたことになります。
ここに、古代の近江を支えていた実務能力が見えてきます。
近江には、巨大な環濠集落があった
滋賀県守山市の下之郷遺跡。
ここには、弥生時代中期の大規模な環濠集落が存在していました。
驚くのは、その規模です。
発掘調査では、集落の周囲を巡る濠が、場所によっては何重にも重なっていたことが確認されています。
最大で九重に及ぶとされる環濠。
集落全体の広がりは、外側の濠を含めると20ヘクタールを超える規模と推定されています。
しかも、出入口と考えられる場所には、柵や門に関係する遺構が残されていました。
その周辺からは、銅剣、石剣、石鏃などの武器も発見されています。
ここで、考えてみたいことがあります。
なぜ、人々はこれほど大きな濠を築いたのでしょうか。
洪水への備えだったのでしょうか。
集落の境界を示すためだったのでしょうか。
外部からの侵入を防ぐ役割もあったのでしょうか。
いずれにしても、これだけの施設をつくるには、多くの人々の協力が必要です。
土を掘る。
排水を考える。
木材を運ぶ。
建物を建てる。
そして、完成した後も維持し続けなければなりません。
近江には、大規模な共同作業を実現できる人々の社会が存在していたのです。
そして、その後の近江には、さらに不思議な集落が登場します。
大型建物が円を描く、伊勢遺跡
守山市の伊勢遺跡。
弥生時代後期を中心とする、約30ヘクタールに広がる大規模な遺跡です。
ここで発見されたものは、普通の住居跡だけではありません。
大型の掘立柱建物が、次々と見つかったのです。
しかも、建物の配置が独特でした。
中央付近には、柵で囲まれた特別な区画があり、その内部に大型建物が配置されていました。
さらに周囲には、独立した棟持柱を持つ大型建物が、円弧を描くように並んでいました。
建物の規模や位置は、一定の計画に基づいていたと考えられています。
ここで、驚くことがあります。
これほど多くの大型建物を、同じ地域で計画的に配置していたのです。
建物を設計する人。
木材を調達する人。
柱を加工する人。
建設作業を進める人。
それぞれの仕事を調整する人々が必要だったでしょう。
しかも、これらの建物は、単なる一般住居ではなく、祭祀や政治的な活動に使われた施設と考えられています。
では、ここに集まった人々は、何をしていたのでしょうか。
地域の祭りでしょうか。
集落同士の話し合いでしょうか。
それとも、広い地域の人々を結びつける重要な行事が行われていたのでしょうか。
伊勢遺跡は、古代の近江における共同体同士の結びつきを考える重要な場所なのです。
そして、山の中から24個の銅鐸が現れた
ここで、さらに驚く発見があります。
滋賀県野洲市の大岩山。
明治14年と昭和37年の二度にわたり、銅鐸が発見されました。
その数は、合計24個。
しかも、その中には、高さ134センチメートルを超える巨大な銅鐸まで含まれていました。
銅鐸は、弥生時代の祭祀に関わる青銅器です。
初期には音を鳴らす道具として利用されましたが、時代が進むにつれて大型化し、見るための祭器としての性格が強まったと考えられています。
大岩山から見つかった銅鐸は、まさにその大型化した時代のものです。
ここで、不思議なことがあります。
なぜ、これほど貴重な銅鐸を、まとめて土の中へ埋めたのでしょうか。
しかも、一部の銅鐸は、大きさの異なるものを重ねるような状態で埋められていたと伝えられています。
大切な祭器なら、普段は祭祀の場所で使われていたはずです。
それを、なぜ山中へ運んだのでしょうか。
新しい祭祀へ移ったのでしょうか。
争いが迫り、大切な品々を隠したのでしょうか。
それとも、役割を終えた銅鐸を、特別な儀礼によって埋納したのでしょうか。
銅鐸は、埋められた理由を直接語ってはくれません。
しかし、この大量埋納は、弥生時代の近江で何らかの大きな変化が起きていたことを考えさせます。
倭国大乱の時代と重なる、不思議な変化
ここまでの出来事を、時間軸で並べてみます。
弥生時代中期には、下之郷遺跡のような大規模な環濠集落がありました。
その後、弥生時代後期には、伊勢遺跡のような大型建物を持つ拠点が現れます。
そして、弥生時代後期の大型銅鐸が、大岩山に埋納されました。
この時期は、倭国大乱と呼ばれる争乱の時代とも近い時期にあたります。
ここで、一つの疑問が生まれます。
近江でも、各地の共同体の関係が大きく変わっていたのでしょうか。
大規模な集落が発展する。
祭祀の中心となる施設がつくられる。
そして、重要な祭器が土の中に納められる。
この流れを、単に偶然の出来事として考えてよいのでしょうか。
しかも、近江は日本海と大和を結ぶ交通の要衝でした。
出雲や越、吉備、東海などの人々と交流することができる場所です。
もし日本列島の各地で政治的な争いが起きていたなら、近江の人々も、その影響を受けていたかもしれません。
そして、争いを避けて移動する人々が、近江へやって来ることも考えられます。
誰が、琵琶湖の交通を支配していたのか
ここで、最初の問いに戻ります。
琵琶湖を支配していたのは、誰だったのでしょうか。
湖岸の集落。
農地を管理する人々。
木材を加工する職人。
船を操る人。
祭祀を担う人々。
これらの共同体が、互いに協力していたとすれば、湖の交通は一人の王だけの力で維持されていたわけではありません。
港を利用するには、そこで暮らす人々の協力が必要です。
物資を運ぶには、船と航海技術が必要です。
集落同士の交流を続けるには、信頼関係が欠かせません。
しかも、琵琶湖には多くの入江や内湖があり、それぞれに異なる自然環境がありました。
琵琶湖の強さは、湖そのものではなく、その周囲に暮らす人々の技術と協力関係にあったのではないでしょうか。
だからこそ、近江には大きな環濠集落があり、大型建物を持つ祭祀の拠点があり、多くの銅鐸が残されたのでしょう。
そして、これらの人々が越や大和と交流していたことを考えると、近江の役割はさらに大きく見えてきます。
越から大和へ。技術と人々が通った道
敦賀から琵琶湖へ。
琵琶湖から山城へ。
そして、大和へ。
この交通路は、単に外交使節を運ぶためだけの道だったのでしょうか。
越でつくられた翡翠や碧玉の製品。
北陸で利用されていた鉄製工具。
大陸から届いた技術。
そうした物資や知識が、近江を経由して内陸へ運ばれたことも考えられます。
さらに、近江自身にも農耕や木工、青銅器に関わる技術がありました。
もし遠方から来た人々が近江に滞在し、地元の職人と交流していたなら、新しい技術が生まれることもあったでしょう。
ここで思い出したいのが、奈良県桜井市の纒向遺跡です。
3世紀初頭、大和には各地の文化を示す土器が集まる、大規模な拠点が現れました。
その中には、北陸や東海と関係する土器も含まれています。
では、それらの物資や人々は、どの道を通って大和へ向かったのでしょうか。
近江は、越から来た人々と大和の人々が出会う場所でもあったのではないでしょうか。
そのように考えると、近江は単なる通過地点ではありません。
独自の技術と祭祀を持ち、広い地域を結ぶ重要な共同体の集まりだったことになります。
24個の銅鐸は、何を守ろうとしたのか
最後に、もう一度大岩山の銅鐸へ戻ります。
高さ1メートルを超える銅鐸。
その製作には、高度な鋳造技術が必要です。
材料を用意し、鋳型をつくり、溶けた金属を流し込む。
失敗すれば、貴重な材料と多くの労力を失います。
それほどの仕事をしてつくられた銅鐸が、山の中にまとめて埋められていた。
そこには、何らかの理由があったはずです。
もしかすると、人々が何世代にもわたって守ってきた祭祀の道具だったのかもしれません。
それを埋めるという行動には、当時の人々にとって大きな意味があったでしょう。
大切なものを隠したのか。それとも、新しい時代へ移るために土へ納めたのか。
この謎を解くには、銅鐸の年代だけでなく、近江の集落や祭祀の変化をさらに詳しく調べる必要があります。
そして、この時代の社会変化は、近江だけで起きていたのでしょうか。
越、出雲、吉備、丹後、そして大和。
各地の遺跡には、同じ時代の大きな変化が残されています。
それらを重ねると、古代日本の人々が経験した、もっと大きな歴史の転換点が見えてくるかもしれません。
次回は、琵琶湖からさらに東へ。
越と近江、東海、信濃を結ぶ交通路をたどり、古代の人々がどのように移動していたのかを追いかけます。
第21話「越から東国へ――湖と山を越えて広がった人々の交流」へ続きます。