敦賀という古代の玄関口――日本海から大和へ続く道
――海を渡った王族、山を越えた船。そして、越に残された不思議な記録
西暦570年。
日本海を渡ってきた一行が、越の海岸に到着しました。
彼らは高句麗から派遣された使節でした。
高句麗といえば、当時の朝鮮半島北部から中国東北部に広がる有力な国家です。
その使者たちが、大和の都ではなく、日本海に面した越へやって来たのです。
では、そこからどうやって大和の政治的中心へ向かったのでしょうか。
当時、現在のような道路や鉄道はありません。
それでも使者たちは、山を越え、琵琶湖を利用して内陸へ進んでいきました。
ところが、その経路を調べていると、驚くべき記録が見つかります。
山を越えて運ばれていたのは、人や荷物だけではありません。船そのものまで運んでいたというのです。
なぜ、そこまでする必要があったのでしょうか。
その理由を考えると、越が日本海と大和を結ぶうえで、いかに重要な位置にあったのかが見えてきます。
日本海の奥に開かれた、敦賀という港
現在の福井県敦賀市。
若狭湾の東側に位置し、敦賀湾の奥に港が広がっています。
背後には山々がありますが、その南側には、琵琶湖へ続く交通路があります。
地図で見ると、あることに気づきます。
敦賀湾から琵琶湖の北端までは、山地を隔てているものの、比較的近い位置にあるのです。
日本海から船で敦賀へ入る。
荷物を陸揚げする。
山道を越えて琵琶湖へ運ぶ。
そして、再び船に積んで湖を進む。
そんな輸送が可能な場所でした。
琵琶湖の南側からは、瀬田川、宇治川、淀川へと水の道が続きます。
また、近江から山城・大和へ入る陸路もありました。
日本海から内陸の政治的中心へ向かうために、敦賀は重要な中継地点だったのです。
しかも、この道は一つではありませんでした。
山を越える道が、いくつも存在した
『福井県史』には、敦賀と琵琶湖を結ぶ複数の交通路が紹介されています。
海津から山中を越える道。
塩津から深坂峠を越える道。
大浦方面から向かう道。
そして、後に北陸道として整備される道です。
現在の滋賀県長浜市に残る深坂古道も、その一つです。
この道は、敦賀と琵琶湖の北部を結び、後世には海産物や塩、米などを運ぶ重要な街道になりました。
ここで考えてみたいことがあります。
なぜ、同じ地域を結ぶ道が複数存在していたのでしょうか。
運ぶ荷物が違ったからでしょうか。
季節や天候によって利用できる道が変わったからでしょうか。
あるいは、向かう先の集落や港によって、異なる道が選ばれていたのでしょうか。
山を熟知する人々なら、道の状態を見て判断できます。
川の増水や積雪、斜面の崩落なども、生活の経験から理解していたでしょう。
そうした知識があったからこそ、険しい山を越えて物資を運ぶことができたはずです。
古代の交通を支えたのは、道そのものだけではなく、その土地を知る人々の実務能力だったのです。
船を山の向こうへ運んだ人々
ここで、最初の高句麗使節の話に戻ります。
『日本書紀』の570年の記述を『福井県史』が検討したところ、高句麗使節は越から近江へ向かったと考えられています。
そして、使節を迎えるための船について、興味深い記述が残されています。
難波津から向かった船を、陸路で引いて山を越えさせたというのです。
『福井県史』も、船を琵琶湖へ回すために、陸路で担ぎ上げる場合があったことを示す重要な史料として紹介しています。
ここで想像してみてください。
船は、簡単に持ち運べる荷物ではありません。
大きさや重量によっては、多くの人手が必要になります。
丸太を使って滑らせたのでしょうか。
縄を掛け、複数の人々が力を合わせて引いたのでしょうか。
どのような方法だったのか、詳しい作業工程までは分かりません。
しかし、船を山越えさせるという仕事を実現するには、運搬技術だけでなく、経路の選定、人数の確保、作業の調整が必要です。
しかも、山道の途中で船を壊してしまえば、目的を果たせません。
古代の人々は、必要と判断すれば、船さえ山の向こうへ運んでいたのです。
この記録は、当時の人々の技術と行動力を考えるうえで、非常に興味深いものです。
敦賀には、海の向こうから来た王族の伝承がある
ところが、敦賀と大陸とのつながりは、570年の高句麗使節だけではありません。
敦賀には、さらに古い時代の出来事として語られる伝承があります。
都怒我阿羅斯等という人物の物語です。
『日本書紀』には、額に角のある人物が船に乗って、越国の笥飯浦へやって来たという話が記されています。
その人物は、朝鮮半島の大加羅国の王族とされています。
そして、この人物の名前が、古い地名である角鹿に関係するという伝承が残されています。
角鹿は、後の敦賀につながる地名です。
現在の敦賀市には、その人物を祀る角鹿神社があります。
ここで注目したいのは、単なる地名の由来ではありません。
海を渡ってきた人物が、地域の祖先に関わる存在として祀られていることです。
しかも、角鹿神社は氣比神宮の境内社として、現在まで信仰を受け継いでいます。
外の世界から来た人々と、もともとその土地に暮らしていた人々。
その関係が、後の氏族や祭祀の歴史につながったのではないでしょうか。
そして、ここでさらに大きな疑問が生まれます。
なぜ、海外から来た王族の伝承が、九州ではなく越の敦賀に残っているのでしょうか。
氣比神宮が祀る、古い神
敦賀には、北陸道総鎮守として知られる氣比神宮があります。
主祭神は伊奢沙別命。
御食津大神とも呼ばれ、食物や人々の暮らしに関わる神として祀られています。
氣比神宮の公式由緒によれば、この神は古くから海上交通、漁業、農業、産業などを守る存在として信仰されてきました。
ここで、祭神の役割に注目してみます。
食料を得ること。
船で移動すること。
海や陸で働くこと。
これらは、古代の敦賀で暮らす人々にとって、日常そのものだったはずです。
船を操る人。
港で荷物を扱う人。
山道を越えて物を運ぶ人。
漁をする人。
そして、そうした人々の暮らしを支える家族や仲間。
彼らにとって、航海の安全や食料の豊かさを願うことは、切実な祈りだったでしょう。
氣比神宮には、王権の歴史だけでなく、海とともに生きてきた人々の信仰が残されているのです。
そして、その氣比大神は、『古事記』『日本書紀』にも登場します。
遠く大和の王権と、敦賀の神が結びつけられているのです。
570年の来航には、まだ続きがあった
ところが、史料を読み進めると、さらに驚く出来事が現れます。
570年に高句麗の使節が越へ来着した後、573年にも使節が越の海岸へ到着しました。
このとき、船は難破し、多くの人々が溺死したと伝えられています。
大和の朝廷は、使節の到着を不審に思い、吉備海部直難波という人物に送還を命じました。
ところが、その人物は、高句麗の使者二人を海へ投げ入れたと『日本書紀』に記されています。
しかも、帰国後には、使者が鯨に飲み込まれたと報告したというのです。
しかし、翌574年。
再び越へ来着した高句麗の使節が、前年に帰国したはずの人々の消息を尋ねました。
その結果、吉備海部直難波の虚偽の報告が明らかになり、罪を問われたと伝えられています。
なんとも不可解な出来事です。
海を渡って外交を求める人々がいる。
彼らを迎え入れる越の地域社会がある。
一方で、中央の命令を受けた人物によって、使者が殺害されたという記録まで残されている。
ここで、考えたくなることがあります。
越で暮らしていた人々と、大和の政治的な中心では、海外から来た人々に対する関わり方が同じだったのでしょうか。
また、この事件に登場する人物が吉備海部直という、海上交通に関わる氏族であることも興味深いところです。
吉備、越、大和、そして高句麗。
これまで追いかけてきた地域が、一つの外交事件の中で再びつながったのです。
越は、海外との交流を自分たちで担っていたのか
ここまでの歴史を並べてみます。
敦賀には、朝鮮半島から来た王族の伝承がある。
氣比神宮には、海上交通と人々の暮らしを守る古い信仰がある。
570年代には、高句麗の使節が越の海岸へ繰り返し到着している。
しかも、越から琵琶湖を経て大和へ続く道も存在していた。
こうした資料を重ねると、一つの大きな問いが生まれます。
越は、大和のために外国の船を受け入れていただけなのでしょうか。
それとも、もっと古くから独自に海外との関係を築き、港や交易路を維持していたのでしょうか。
日本海沿岸の人々が、長い年月をかけて航海技術や人間関係を築いていたなら、交流は中央の命令だけで始まったものではなかったはずです。
交易には相手が必要です。
港を使うには、そこで働く人々が必要です。
遠くの土地から来た人々を受け入れるには、言葉を取り次ぐ人や、食料と水を用意する人も必要でしょう。
そうした仕組みは、港で暮らしてきた人々が積み重ねてきたものだったのではないでしょうか。
そして、越から内陸へ向かう道を維持していたのも、その土地の人々だったはずです。
越の力は、海と陸の両方を結ぶ人々の知識と技術にあった。
そう考えると、敦賀の位置づけは、単なる港町という説明だけでは足りなくなります。
人々が移動する道には、技術も移動する
ここで、少し視点を変えてみます。
船で到着した人々の中には、外交使節だけでなく、職人や商人もいたでしょう。
船を修理する技術を持つ人。
金属を加工する人。
木材を扱う人。
海の向こうの言葉を知る人。
そうした人々が越に滞在し、地元の人々と交流していたなら、技術や知識も伝わります。
反対に、越の職人が海を渡り、別の土地で技術を学ぶことも考えられます。
そして、敦賀から琵琶湖へ進む道があれば、技術者たちは近江や大和へ向かうこともできます。
ここで、これまで調べてきた北陸のものづくりを思い出してみます。
翡翠や碧玉の加工。
精巧な木工。
鉄製工具の利用。
それらを支える材料や技術は、広い地域の人々との交流によって発展してきました。
日本海の向こうから届いた技術が、越を経て内陸へ広がる。反対に、越で育った技術が海の向こうへ伝わっていく。
そんな双方向の流れがあったとすれば、古代日本の技術史も違った姿で見えてきます。
そして、海と山の道は人々の命も運んだ
ここで、もう一度人々の移動を考えてみます。
交易によってつながった港。
山を越えるための道。
湖を渡る船。
それらは、平和な時代に物資を運ぶためだけに利用されたのでしょうか。
もし、ある土地で争いが起きたとしたら。
もし、家族や仲間とともに故郷を離れなければならなくなったとしたら。
それまで交流してきた土地を頼る人々もいたでしょう。
敦賀から琵琶湖へ。
そこから大和へ。
反対に、大和から近江を経て日本海へ。
そうした移動経路を考えると、古代の人々は現在の地図から感じる以上に、広い地域とつながっていたことになります。
しかも、越から先には、さらに東北へ続く日本海の道があります。
一方、内陸へ進めば、信濃や関東へも向かえます。
越は多くの道が結びつく地域だったのです。
そして、交易や婚姻によって結ばれた人々がいれば、その道は新しい暮らしを求める人々を迎える道にもなったでしょう。
物が行き交う道は、人が生き延びるための道にもなる。
この視点から越の歴史を考えると、さらに大きな謎が見えてきます。
敦賀の港が伝えていること
都怒我阿羅斯等という人物の伝承。
氣比大神への信仰。
高句麗使節の来航。
船を山越えさせたという記録。
それらは、時代も内容も違います。
しかし、共通するものがあります。
越が海の向こうとつながり、さらに内陸の広い地域へ人々を送り出す場所だったということです。
越を調べるほど、中央の王権とは別に、長い交流の歴史を持つ地域社会の存在が見えてきます。
では、敦賀の先には、どのような人々が暮らしていたのでしょうか。
琵琶湖を取り囲む近江の集落。
湖を船で移動する人々。
山を越えて大和へ向かう技術者たち。
そして、遠方から来た人々を迎える共同体。
そのつながりは、いつから存在していたのでしょうか。
次回は、敦賀から琵琶湖へと舞台を移します。
第20話「琵琶湖を支配したのは誰か――近江に集まった技術と人々の謎」へ続きます。