海を渡った人々――越と大陸を結ぶ、もうひとつの古代史
――海の向こうへ消えた人々は、再び故郷へ戻ってきたのか
一隻の船が、日本海を進んでいます。
遠くに見えていた陸地は、いつしか水平線の向こうへ消えました。
周囲には海しかありません。
船に乗る人々は、風を読み、波の変化を確かめ、進むべき方向を探しています。
目指しているのは、遠く離れた土地です。
そこには自分たちの知らない技術があり、見たことのない品物があり、異なる言葉を話す人々が暮らしています。
この航海の場面は想像です。
しかし、古代の日本海を越えて人や物が行き来していたことは、各地の遺跡や古い記録から確認できます。
ここで、一つの疑問が生まれます。
海を渡ってきた人々は、本当にみんな、初めて日本列島へ来た人々だったのでしょうか。
古くから日本列島に暮らしていた人々が海を渡り、その子孫が新しい技術を身につけて戻ってきた。
そんな往来もあったのではないでしょうか。
今回は、越と大陸の間に残された手がかりを追いかけます。
日本海の潮流を知る
越と大陸の交流を考えるとき、まず日本海の姿を知る必要があります。
日本海には、対馬暖流という大きな海流があります。
東シナ海から対馬海峡を通って日本海へ入り、日本列島の沿岸などを北上していく暖流です。
気象庁によると、対馬暖流は複数の流れに分かれ、海岸線や海底の地形に影響されながら進みます。
決して、一本の川のようにまっすぐ流れているわけではありません。
しかも、季節によって流れの強さも変わります。
当時の航海者は、この海をどのように理解していたのでしょうか。
漁をする人々は、潮の変化を日々経験していたはずです。
船をつくる人々は、木材の性質や船の形を考えていたでしょう。
そして、遠方へ向かう人々には、風向きや季節、海岸線の知識が必要でした。
海は危険な場所であると同時に、遠く離れた地域へ向かうことのできる道だったのです。
だからこそ、人々は海を利用し続けたのでしょう。
越の翡翠が、海を越えていた
ここで、驚くべき事実があります。
新潟県糸魚川周辺で採れる翡翠。
その美しい緑色の石は、縄文時代から日本列島各地へ運ばれていました。
北は北海道。
南は沖縄。
そして、時代が進むと、その交流は日本列島の外へも広がっていきます。
糸魚川市の歴史文化に関する公式資料には、古墳時代になると糸魚川産翡翠の流通が朝鮮半島まで及んだことが記されています。
越で産出する石が、日本海を越え、大陸側へ運ばれていたのです。
ここで注目したいのは、翡翠そのものの価値だけではありません。
その石を採る人がいた。
加工する人がいた。
遠方へ運ぶ人がいた。
そして、海の向こうでそれを受け取る人々がいた。
石が海を渡るということは、その背後に人々の活動があったということです。
しかも、石の加工には熟練した技術が必要です。
天然石は内部の状態が均一ではありません。
割れやすい場所もあれば、工具が思うように進まない場所もあります。
それでも古代の職人たちは、穴を開け、美しい形に整え、装飾品をつくっていました。
その技術と製品が遠方へ伝わっていたということは、越のものづくりが広い世界と結びついていたことを意味します。
かつて、翡翠は海外から来たと思われていた
ここで、もう一つ興味深い話があります。
現在では糸魚川周辺が翡翠の重要な産地だったことは広く知られています。
しかし、その産地が明らかになる以前には、日本各地から出土する翡翠の玉は、海外から運ばれてきたものだと考える研究者もいました。
なぜでしょうか。
それほど広い範囲に美しい翡翠の製品が流通していたからです。
ところが、糸魚川周辺に原産地があることが明らかになり、さらに加工遺跡が次々と見つかりました。
長者ケ原遺跡。
寺地遺跡。
そのほかにも、縄文時代から古墳時代にかけての翡翠加工に関係する資料が発見されています。
海外から来たと思われていた品物の重要な生産地が、実は越にあったのです。
ここで、日本列島の歴史を見る方向が変わります。
外の世界から技術や品物がやって来た。
それだけではありません。
日本列島から、外の世界へ送り出されたものもあったのです。
では、品物と一緒に技術者が海を渡ることはなかったのでしょうか。
技術は、完成品だけでは伝わらない
越には翡翠や碧玉を加工する職人がいました。
弥生時代の八日市地方遺跡では、管玉をつくるための石鋸や石針、加工途中の材料が発見されています。
その一方で、鉄製の工具も利用されていました。
鉄は、古代のものづくりを大きく変える材料です。
石や木とは異なる加工方法が必要であり、工具としての性能にも大きな違いがあります。
では、鉄の工具を初めて手にした人々は、どのように使い方を覚えたのでしょうか。
工具を見ただけで、すべての技術を理解できるわけではありません。
使い方を教える人。
新しい加工方法を試す人。
使い慣れた道具と比較しながら、改良を重ねる人。
そうした活動が必要だったでしょう。
そして、技術を伝えるためには、人が移動することも有効です。
実際に加工して見せる。
相手に使わせてみる。
失敗した理由を教える。
何度も試して、技術を身につけてもらう。
それは現代の製造現場でも変わりません。
ものづくりの技術は、完成品だけでなく、人の経験によっても運ばれていくのです。
古代の日本海を渡った人々の中にも、そうした技術者がいたのでしょうか。
海を渡った人々は、戻ってきたのか
ここで、考え方をもう一度変えてみます。
私たちは古代の渡来人という言葉を聞くと、大陸から日本列島へ移住してきた人々を思い浮かべます。
しかし、人々の往来が長く続いていたなら、移動は一方向だけだったのでしょうか。
日本列島から海を渡った人々もいたはずです。
交易のために向かった人。
技術を学ぶために向かった人。
婚姻や親族関係によって別の土地へ移った人。
そして、故郷へ戻る人。
一度海を渡った人が、必ずその土地に住み続けなければならない理由はありません。
大陸で技術を身につけ、数年後に戻ってくることも考えられます。
さらに、その子どもや孫が祖先の故郷を訪れることもあったでしょう。
もし、そうした人々が越へ戻ってきたなら。
彼らは新しい知識や道具、技術を持ち帰ったかもしれません。
新しい言葉を知り、別の土地の暮らし方を理解し、遠方の人々との交流を続ける力を持っていたでしょう。
「渡来した人々」の中には、古くから日本列島に関わる一族の人々もいたのではないでしょうか。
この問いを考えるには、品物の産地だけでなく、人々の移動や氏族の歴史を重ねる必要があります。
そして、その手がかりは、後の時代の記録にも残されています。
越の海岸へ、突然現れた高句麗の使者
西暦570年。
『日本書紀』には、高句麗の使者が越の海岸に到着したという記録があります。
高句麗は、朝鮮半島北部から中国東北部にかけて勢力を持った古代国家です。
この使者たちは航海中に風浪に遭い、進むべき港を見失ったとされています。
そして、たどり着いた場所が越でした。
ここで注目したいのは、使者が到着したという出来事だけではありません。
なぜ高句麗の人々は、日本海を渡った先で越の海岸へたどり着いたのでしょうか。
海流でしょうか。
季節風でしょうか。
あるいは、日本海沿岸の地形や航路について、何らかの知識を持っていたのでしょうか。
記録によれば、この使者たちは現地から大和の朝廷へ報告され、その後、近江を経由して都へ向かうことになります。
『福井県史』では、敦賀から山を越えて琵琶湖へ進み、そこから内陸へ移動した経路が考察されています。
つまり、越の海岸から大和の政治的な中心へ至る、海と陸を結んだ道が存在していたのです。
しかも、この出来事は一度では終わりませんでした。
高句麗の使節は、繰り返し越へ来ていた
『福井県史』によると、570年から574年にかけて、高句麗の使節が繰り返し越の海岸へ到着しています。
573年にも、使者が越の海岸へ来着しました。
さらに574年にも、高句麗の使者が現れています。
ここで不思議なのは、何度も越へ来ているということです。
正式な外交関係を築こうとしていたとはいえ、これほど日本海を渡る航海が続いていたことは注目に値します。
しかも、その経路には危険が伴っていました。
難破し、多くの人々が亡くなったとする記録もあります。
それでも海を渡ったのです。
さらに、越に到着した使節を大和の朝廷がどう扱うのかという問題も生じていました。
越は、海外から人々が到着する場所であり、その先の政治的な交渉にも関わる重要な地域だったのです。
ただし、この6世紀の出来事だけで、数千年前から同じ航路が使われていたと決めることはできません。
それでも、越が日本海の向こうと結ばれる地理的な位置にあったことは、この記録からも見えてきます。
港に集まったのは、商人だけだったのか
海外との交流が続く港には、さまざまな人々が集まります。
船をつくる人。
食料や水を補給する人。
荷物を運ぶ人。
工具や船体を修理する人。
遠方の言葉を理解し、話を取り次ぐ人。
航海に必要な知識を持つ人。
さらに、港の周辺で暮らす家族や親族もいたでしょう。
ここで、古代の越を一つの港だけではなく、広い地域として考えてみます。
日本海に面した港。
川沿いの集落。
山間部の資源産地。
加工技術を持つ職人たち。
これらが結びついていれば、海上交易を支える大きな仕組みになります。
海の向こうから物資を受け取り、内陸へ運ぶ。
反対に、内陸から届いた品物を船に積み、遠方へ送り出す。
その流れを維持するために、多くの人々が協力していたはずです。
越の力は、海に面した場所に港があったことだけではなく、港と内陸の人々がつながっていたことにあったのではないでしょうか。
鬼界カルデラの巨大噴火を、もう一度考える
ここで、時間を一気に約7,300年前へ戻してみます。
鬼界カルデラの巨大噴火です。
南九州では森林や集落に大きな被害が生じ、自然環境の回復には長い時間がかかりました。
もし、その災害を避けて移動した人々がいたなら、どこを目指したのでしょうか。
海を渡ることのできる人々もいたでしょう。
別の地域に親族や交流相手を持つ人々もいたかもしれません。
そして、さらに遠い土地へ移動し、そこで新しい暮らしを築いた人々もいたのではないでしょうか。
そうした人々の子孫が、長い年月を経て、日本列島へ戻ってくることはなかったのでしょうか。
これは、まだ調べたいことの多い問題です。
しかし、巨大噴火という環境の変化と、日本海を通じた人々の往来を別々に考えるだけでは、見落としてしまうものがあるかもしれません。
自然災害によって人々が動き、人々の移動によって技術や文化が動く。
その積み重ねが、長い年月をかけて新しい社会を生み出していった。
そう考えると、越の歴史は日本列島の中だけでは完結しなくなります。
そして、越には大きな謎が残る
ここまで調べてきたことを振り返ってみます。
越には、古くから翡翠や碧玉の加工技術がありました。
その製品は日本列島の広い範囲へ運ばれ、古墳時代には朝鮮半島へも届いていました。
日本海には、対馬暖流という大きな海流があります。
そして6世紀には、高句麗の使節が越の海岸へ繰り返し到着したという記録が残されています。
これらの事実を重ねると、越は単に海外から技術を受け取るだけの土地ではなかったことが見えてきます。
越から海を渡る人々がいて、海の向こうから越へ来る人々がいた。
この往来の中で、どんな技術が伝わり、どんな人間関係が生まれたのでしょうか。
さらに、それらの交流は、出雲や吉備、諏訪、東北へどのようにつながっていったのでしょうか。
もし越に、海を越えた交流を支える多くの共同体が存在していたなら。
そこには、技術と人々の移動を通じて、広い範囲に影響を与える力があったのではないでしょうか。
そして、まだ解けていない大きな謎があります。
越から海を渡った人々は、何を学び、何を持って戻ってきたのか。
この問いは、古代の技術者集団や氏族の移動を考えるうえで、これからさらに重要になっていくでしょう。
次回は、越の中でも大陸との交流を考えるうえで重要な場所、敦賀へ向かいます。
日本海から琵琶湖へ。
そして大和へ。
海の道と内陸の道が交わる場所に、どんな歴史が残されているのでしょうか。
第19話「敦賀という古代の玄関口――日本海から大和へ続く道」へ続きます。