日本列島の歴史を変えた巨大噴火――鬼界カルデラと失われた縄文社会
――7,300年前、南の海で何が起きたのか。そして、人々はどこへ向かったのか
今から約7,300年前。
現在の鹿児島県南方に広がる海で、日本列島の歴史を大きく変える出来事が起きました。
鬼界カルデラの巨大噴火です。
その規模は、現代の私たちが経験したどの噴火とも比較にならないほど巨大なものでした。
海底から噴き上がる大量の火山灰。
海を越えて押し寄せる火砕流。
空を覆う噴煙。
そして、降り積もる火山灰。
それまで南九州の各地に暮らしていた人々は、突然、生活の基盤を失うことになりました。
昨日まで家族と暮らしていた土地が、もう住めない場所になってしまったとしたら。
人々は、どうしたのでしょうか。
その問いを追いかけると、縄文時代の日本列島を、これまでとは違う角度から考える必要が出てきます。
世界最大級の噴火が、日本の南で起きていた
鬼界カルデラは、鹿児島県の薩摩半島南方に位置する巨大な海底火山です。
現在、海面上に見えている薩摩硫黄島や竹島は、カルデラの一部にあたります。
2024年、神戸大学の研究グループは、周辺海底に堆積した大量の火山噴出物を詳しく調査しました。
その結果、約7,300年前のアカホヤ噴火による噴出物が、海底の4,500平方キロメートル以上に広がっていたことが明らかになりました。
さらに、海底堆積物と広域火山灰を合わせた噴出物の規模は、332〜457立方キロメートル以上と推定されました。
研究グループは、この噴火を、過去約1万1,700年間で最大規模の火山噴火と位置づけています。
数字だけでは、想像するのも難しい大きさです。
しかし、本当に考えたいのは噴出物の量だけではありません。
その地域には、噴火以前から多くの人々が暮らしていたということです。
噴火以前の南九州には、豊かな文化があった
縄文時代というと、狩猟や採集を中心とする素朴な暮らしを思い浮かべる人もいるでしょう。
しかし、南九州には早い時期から定住的な集落が存在していました。
鹿児島県霧島市の上野原遺跡では、縄文時代早期の竪穴建物跡や集石遺構、土器などが発見されています。
ここには、噴火より古い時代から、人々が集まり、生活を営んでいた痕跡があります。
人々は自然の中で食料を得るだけでなく、道具をつくり、住まいを築き、集落を維持していました。
土器をつくるには、材料を選び、粘土を成形し、火を扱う技術が必要です。
石器をつくるには、石の性質を理解しなければなりません。
食料を確保するためには、季節ごとの自然の変化を把握しておく必要があります。
そうした知識や技術は、一日で生まれるものではありません。
親から子へ、仲間から仲間へと、長い年月をかけて受け継がれてきたものです。
巨大噴火によって脅かされたのは、建物や森林だけではありません。何世代にもわたって築かれた暮らしそのものだったのです。
森が消えたら、何が起きるのか
巨大噴火の被害を考えるとき、火砕流や火山灰による直接の被害に注目しがちです。
しかし、人々の暮らしにとって、さらに深刻だったのは、その後の環境の変化だったかもしれません。
JAMSTECが紹介する研究では、南九州の照葉樹林は、噴火後600〜900年間にわたって十分に回復しなかったとされています。
森が失われれば、木の実や動物などの食料を得る環境も大きく変わります。
木材を手に入れる場所も変わります。
土砂が流れ込み、河川や水辺の状態も変化するでしょう。
それまで熟知していた土地であっても、同じ方法で暮らし続けられるとは限りません。
では、自然の中で生活する知恵と技術を持つ人々は、どう行動したでしょうか。
食料を探す。
被害の少ない土地を探す。
親族や交流相手が暮らす地域へ向かう。
そうした判断が必要になった人々もいたと考えられます。
噴火が終わっても、人々の暮らしにとっての災害は終わらなかったのです。
遺跡が消えた地域と、暮らしが続いた地域
考古学の研究でも、鬼界アカホヤ噴火の前後には、南九州の遺跡分布に大きな変化が見られます。
噴火直後、南九州南部では生活の痕跡が乏しくなり、定住的な集落が再び広く確認されるまでには長い時間を要しました。
一方、九州の中部以北では土器文化の継続も確認されています。
つまり、九州全体が同時に無人になったわけではありません。
被害の程度は地域によって大きく違っていました。
ここで興味深いのは、人々が暮らせなくなった地域と、その後も暮らしが続いた地域があったということです。
南九州で失われた生活の場。
一方で、北九州、中国地方、近畿、北陸、東北では、それぞれの地域の自然環境に合わせた縄文社会が続いていました。
では、被害を受けた地域から生き延びた人々が移動したとしたら、どこを目指したのでしょうか。
その移動によって、各地の人口や技術、交流関係はどのように変わったのでしょうか。
巨大噴火は、単に一つの地域を破壊しただけでなく、日本列島の人々の関係を組み替える出来事だったのではないでしょうか。
ここに、今回の歴史探訪で追いかけたい大きな謎があります。
何を持って、故郷を離れたのか
もし自分たちの集落が暮らせない場所になったら、何を持って移動するでしょうか。
生活に必要な道具。
持ち運べる食料。
子どもや家族を守るための品々。
しかし、人々が持っていたものは、それだけではありません。
土器をつくる技術。
木材を加工する技術。
石器をつくる知識。
魚を捕る方法。
植物を利用する知恵。
そうしたものは、荷物として背負わなくても、人とともに移動できます。
経験を持つ職人が新しい土地へ移れば、その技術をそこで使うことができます。
別の地域の人々と出会えば、異なる知識が組み合わされることもあるでしょう。
新しい材料を見つけ、別の加工方法を試すこともできます。
これは、現代のものづくりにも通じることです。
技術は道具だけに宿るのではありません。それを理解し、使いこなす人間の中にも残されているのです。
もし巨大噴火によって多くの人々が移動していたなら、技術や文化の移動も起きていたはずです。
では、その痕跡はどこに残されているのでしょうか。
そして、北陸には古い暮らしが続いていた
ここで、舞台を越へ移します。
現在の富山県にある小竹貝塚。
縄文時代前期のこの遺跡では、多くの人々が海や潟湖の資源を利用して暮らしていました。
発掘調査では、多数の人骨とともに、生活や埋葬に関わる遺構が見つかっています。
さらに、能登半島の真脇遺跡には、数千年にわたる人々の暮らしが残されていました。
これらの地域では、南九州とは異なる自然環境の中で、集落が営まれていたのです。
しかも北陸には、日本海という大きな交通路がありました。
海を西へ進めば山陰へ。
東へ進めば東北へ。
河川や峠道を利用すれば、信濃や内陸部にも向かうことができます。
こうした土地では、各地から来た人々が交流し、技術や知識を交換することもできたでしょう。
ここで一つの疑問が生まれます。
鬼界カルデラの巨大噴火後、越や東日本の社会は、列島の人々の移動や交流にどのような役割を果たしたのでしょうか。
噴火以前から続く地域の文化。
新しい土地へ移動した人々の経験。
それらが出会うことで、別の文化が発展していった可能性があります。
ただし、南九州から越へ直接大勢の人々が移ったという経路は、ここからさらに遺跡の年代や文化の変化を追って考える必要があります。
交易の中心は、変わったのか
人々の移動が起きれば、物資の流れも変わります。
それまで交流していた集落が消えれば、別の相手を探す必要があります。
必要な材料が届かなくなれば、ほかの産地を探すでしょう。
新しい土地に人々が集まれば、そこでは異なる技術や品物が交換されるようになります。
交易とは、単に物が移動することではありません。
それぞれの地域で暮らす人々が、必要なものを融通し合うことでもあります。
そうした関係の一部が巨大噴火によって断たれれば、人々は新しいつながりを求めるはずです。
ここで越に注目したいのです。
豊かな山林資源。
河川と潟湖。
翡翠などの貴重な石材。
日本海を通じた広域の交通路。
これらを持つ北陸の地域社会は、時代が進むにつれて大きな交易圏を形成していきました。
もともと豊かな土地だった越が、さらに遠方の人々と結びついていく過程に、日本列島全体の環境変化が関わっていたのではないでしょうか。
その関係を知るには、噴火前後の遺跡分布や、石材の流通経路を比較することが重要になります。
一つの噴火が、数千年後の歴史にも影響したのか
ここで、時間を大きく進めてみます。
縄文時代の後、日本列島では農耕が広がり、鉄器や青銅器が利用されるようになります。
各地に大きな集落が生まれ、有力者の墓が築かれます。
越では玉づくりや交易が発達し、出雲や吉備とのつながりが見られるようになります。
やがて倭国大乱と呼ばれる争乱の時代が訪れ、大和では纒向が急速に発展しました。
それらの出来事は、鬼界カルデラの噴火から数千年後のことです。
もちろん、すべてを一度の噴火だけで説明することはできません。
その間には気候の変化もあり、新しい技術の発展もあり、大陸との交流もありました。
しかし、数百年にわたり土地の環境が変われば、その影響を受けた人々の暮らしも変わります。
人々が移動すれば、移動先の社会も変わるでしょう。
そして、その子孫が新しい土地で暮らし続ければ、そこでさらに別の歴史が積み重なっていきます。
巨大噴火は、一瞬の災害で終わらず、後の世代の暮らしや文化にも影響を残したのではないでしょうか。
この長い時間のつながりを考えることが、古代史を見直す大切な切り口になると思います。
歴史を動かしたのは、自然と向き合う人々だった
古代の歴史を考えるとき、私たちは王や戦争の話に注目しがちです。
しかし、そのはるか以前から、人々は自然の中で暮らしを築いていました。
海へ出る人。
山で働く人。
土器をつくる人。
石を加工する人。
植物を育て、家族の食料を確保する人。
それぞれが経験を積み、仲間と助け合いながら暮らしていました。
巨大噴火という想像を絶する災害が起きたときも、人々は生きるために判断し、行動したでしょう。
故郷に残る人。
別の土地へ移る人。
新しく来た人々を迎える人。
そして、新しい環境で暮らしを築き直す人。
日本列島の歴史を動かしてきたのは、王や支配者だけではありません。自然と向き合い、生き延びるために行動してきた多くの人々だったのです。
ここまで調べてくると、越の歴史も違った姿で見えてきます。
越は、なぜ豊かだったのか。
なぜ多くの地域とつながっていたのか。
なぜ、技術や文化が集まる地域になったのか。
その答えを考えるには、弥生時代や古墳時代だけでなく、さらに古い縄文時代の環境変化までさかのぼる必要がありそうです。
そして、もう一つの大きな謎が残ります。
巨大噴火を経験した人々の子孫と、日本海を行き来していた人々は、どこかでつながっていたのでしょうか。
海の道を調べると、今度は日本列島の外側へ視野が広がります。
朝鮮半島。
大陸沿岸。
そして、日本海の潮流を利用した人々の移動。
越の歴史は、さらに広い世界へ続いていきます。
第18話「海を渡った人々――越と大陸を結ぶ、もうひとつの古代史」へ続きます。