越王国の謎――なぜ日本海の豊かな土地に人々は集まったのか
――6,000年前の海岸線。91人の人骨と4,000年続いた集落が語るもの
現在の富山県富山市。
海岸から約4キロメートル離れた内陸に、小竹貝塚という縄文時代の遺跡があります。
今、周辺を訪れても、目の前に海はありません。
ところが、約6,000年前の人々が見ていた景色は、現在とはまったく違っていました。
集落のすぐ近くまで、広大な水辺が広がっていたのです。
しかも、そこは単なる海岸ではありませんでした。
海水と淡水が混じり合う潟湖。
魚介類を得ることができ、周囲には森林や丘陵が広がる、豊かな場所だったのです。
そんな土地に人々が暮らし、食料を集め、道具をつくり、家族を育てていました。
そして約6,000年後。
現代の発掘調査によって、驚くべきものが姿を現しました。
少なくとも91人分もの、縄文時代の人骨です。
それも、長い年月をかけて丁寧に埋葬された人々でした。
いったい、ここにはどのような社会が存在していたのでしょうか。
その謎を追うと、越と呼ばれるようになる地域が、はるか古代から持っていた力が見えてきます。
かつての富山平野は、広大な水辺だった
今から約6,000年前。
縄文海進と呼ばれる海面上昇によって、日本列島の海岸線は現在と異なる場所にありました。
富山県によると、当時の海面は現在より約4〜5メートル高く、射水平野の広い範囲に汽水性の潟湖が広がっていたと考えられています。
現在の田畑や住宅地の一部は、水に覆われていたのです。
現代の地図だけを見ていると、この風景は想像しにくいかもしれません。
しかし、当時の人々にとって、水辺は暮らしを支える重要な場所でした。
魚を捕る。
貝を集める。
船を使って移動する。
川沿いを進み、山や丘陵から木材や食料を得る。
水辺と山が近い土地では、さまざまな自然資源を利用できます。
しかも、季節によって手に入る食料が変われば、それに合わせて生活を組み立てることもできます。
越の豊かさを考えるなら、まず現在の平野ではなく、古代の水辺を見なければならないのです。
地下から現れた、日本海側最大級の貝塚
小竹貝塚は、縄文時代前期後葉を中心に、約500年間営まれました。
貝層の厚さは、場所によって2メートルを超えています。
しかも、その大半を占めるのはヤマトシジミでした。
ヤマトシジミは、海水と淡水が混じる汽水域に生息する貝です。
つまり、この貝塚そのものが、当時の水辺の環境を教えてくれているのです。
さらに発掘調査では、貝殻を捨てた場所だけでなく、住居域、墓域、生産加工域も確認されました。
これは重要です。
人々は単に貝を採りに来ていただけではありません。
そこに住み、働き、家族と暮らし、亡くなった人々を葬っていたのです。
しかも、海だけに頼っていたわけではありません。
周囲の森では木の実や動物を得ることができ、川や潟湖では魚や貝が採れました。
複数の食料源を持つことは、自然環境の変化に対応するうえでも大きな意味を持ちます。
そんな暮らしが何世代も続き、集落の歴史が積み重なっていったのです。
91人の人骨が語る、家族と共同体の歴史
小竹貝塚の発掘調査では、少なくとも91人分の人骨が確認されました。
国立科学博物館の研究によって明らかになった、重要な成果です。
しかも、乳幼児から大人まで、さまざまな年齢の人々が含まれていました。
ここで大切なのは、91人が一度に暮らしていたという意味ではないことです。
彼らは長い年月の中で亡くなり、埋葬された人々です。
しかし、この発見には大きな意味があります。
約6,000年前、越の地域には、世代を越えて生活を続けていた人々がいた。
そして、亡くなった人を葬る場所があり、次の世代も同じ土地で暮らしていた。
ここから、単なる一時的な生活拠点とは違う社会の姿が見えてきます。
親が子どもに漁の方法を教える。
祖父母が山や川の危険を伝える。
経験を積んだ人が、道具のつくり方を教える。
暮らしの技術は、家族や仲間の中で受け継がれていったのでしょう。
人々が土地を知り、自然とともに生きる知恵を積み重ねていたことが、共同体の強さを育んだのではないでしょうか。
ところが、越の古代史には、さらに驚く遺跡があります。
舞台は、富山湾を挟んだ能登半島へ移ります。
4,000年間、人々が暮らし続けた場所
石川県能登町。
富山湾に面した入江に、真脇遺跡があります。
この遺跡の歴史は、約6,000年前から約2,300年前まで続きます。
その期間は、およそ4,000年間。
気の遠くなるような長さです。
日本列島の社会が大きく変化していく間、この場所では繰り返し人々の生活が営まれていました。
しかも、発掘調査で見つかったものは、普通の生活道具だけではありませんでした。
大量のイルカの骨。
木でつくられた品々。
編物や縄類。
そして、巨大な木柱を円形に並べた遺構。
そこには、自然資源を利用する技術と、独自の祭祀文化が残されていたのです。
なぜ、人々はこれほど長い年月、この場所で暮らし続けたのでしょうか。
単に住みやすかったからでしょうか。
それとも、周辺の集落との交流や、長く受け継がれた共同体の仕組みがあったのでしょうか。
大量のイルカを、どうやって捕ったのか
真脇遺跡では、縄文時代前期末から中期初頭の地層から、大量のイルカの骨が発見されています。
その多さから、イルカ漁が行われていたと考えられています。
ここで、当時の暮らしを思い浮かべてみてください。
相手は、海の中を自由に泳ぐイルカです。
泳ぐ速さも、方向を変える能力も、人間とは違います。
しかも、現代のようなエンジン付きの船や魚群探知機はありません。
当時の人々は、海の状態を読み、イルカの動きを観察し、自分たちの道具や経験を使って漁をしていたのでしょう。
イルカを捕獲する方法については、追い込み漁などが考えられています。
もし複数の船や人々が協力する漁だったなら、互いの動きを理解し、適切な判断をする必要があります。
海流や風向き、波の変化を知らなければ、漁に出ること自体が危険です。
さらに、捕獲したイルカを運び、解体し、食料として利用する作業も必要になります。
真脇の人々は、海を知り、道具を使い、仲間と協力する、高い実務能力を持っていたのでしょう。
ここに見えるのは、ただ食料を待っている人々ではありません。
自然の中で考え、働き、技術を磨いてきた人々の姿です。
さらに不思議な、巨大な木柱の輪
真脇遺跡には、もう一つ大きな謎があります。
環状木柱列と呼ばれる遺構です。
巨大なクリの木を半割りにし、地面に立てて円形に並べたもので、縄文時代晩期の地層から見つかっています。
何のためにつくられたのでしょうか。
祭祀に関わる施設だったのでしょうか。
季節や自然の変化を知るための役割があったのでしょうか。
用途については、現在もさまざまな研究が続けられています。
しかし、ここで注目したいのは、その建設作業です。
大きな木を選び、伐採する。
必要な形に加工する。
重い木材を運ぶ。
位置を決め、地面に立てる。
これだけでも、多くの技術と労力が必要です。
しかも、複数の木柱を一つの形に配置するには、全体の計画が必要になります。
ここには、木材加工の技術だけでなく、人々が協力して大きな仕事を成し遂げる力があったのです。
王の命令によってつくられたのでしょうか。
集落の人々が、自分たちの信仰や行事のために協力したのでしょうか。
その答えは簡単には分かりません。
けれども、これほどの施設をつくる社会が存在したという事実は、古代の越の人々に対する印象を大きく変えてくれます。
人々が集まり続ける土地には、理由がある
小竹貝塚では、約500年間にわたる集落の暮らしが確認されました。
真脇遺跡では、約4,000年間もの長い歴史が積み重なっていました。
この二つの遺跡には、共通するものがあります。
海や潟湖に近いこと。
山林資源を利用できること。
多様な食料を得られること。
そして、自然環境に合わせて暮らす技術を持つ人々がいたことです。
しかし、それだけで何千年もの暮らしが続くでしょうか。
嵐もあったでしょう。
大雪も降ったでしょう。
地震や洪水、食料不足に直面することもあったはずです。
そうした困難があっても、人々は生活を続けてきました。
時代によって集落の規模や位置を変えながら、自然と向き合い、暮らしを立て直してきたのでしょう。
そして、離れた土地にも交流相手がいれば、足りないものを補い合うことができます。
豊かな土地と、人々の経験、そして共同体同士の結びつき。
それらが重なって、越の地域社会は長い歴史を築いてきたのではないでしょうか。
越は、いつから強かったのか
ここまで調べてきたことを、もう一度考えてみます。
約6,000年前の富山には、日本海側最大級の貝塚を伴う集落がありました。
能登には、数千年にわたって人々が生活した遺跡が残っています。
その後、北陸では翡翠や碧玉の加工が発達し、遠く離れた地域との交易が盛んになりました。
弥生時代には、大規模な環濠集落が現れます。
そして2世紀には、有力者のために特別な墳丘墓が築かれていました。
つまり、越の発展は、ある日突然始まったものではありません。
長い年月をかけて暮らしが積み重なり、技術が磨かれ、人々の交流が広がっていった結果として考える必要があるのです。
しかも、その歴史は大和王権の成立以前にまでさかのぼります。
では、こうした豊かな地域に、外から人々が移住してきたらどうなるでしょうか。
新しい技術が持ち込まれる。
異なる地域の文化が伝わる。
婚姻によって一族のつながりが広がる。
そして、人々の交流はさらに遠くへと延びていくでしょう。
そうした積み重ねによって、越は単なる一つの地域ではなく、日本列島の広い範囲へ影響を与える交流圏になっていったのではないでしょうか。
ところが、まだ大きな謎がある
ここで一つ、重要な疑問が残ります。
これほど豊かな越の人々は、いったいどこから来たのでしょうか。
最初から北陸に暮らしていた人々だけだったのでしょうか。
ほかの地域から移住してきた人々もいたのでしょうか。
そして、日本海の向こうにある大陸との交流は、いつから、どのように始まっていたのでしょうか。
古代の日本海を考えると、そこには大きな交通路が浮かび上がります。
出雲へ続く西の道。
東北へ続く北の道。
信濃や関東へ入る内陸の道。
そして、朝鮮半島や大陸へ向かう海の道。
越は、それらの道が交わる重要な位置にありました。
その地理的な条件が、人々や技術を集め、独自の社会を発展させていったのでしょうか。
さらに、交易が長く続いていたなら、海の向こうにも親族や仲間が生まれていたかもしれません。
物が移動したということは、人が動いていたということ。そして、人が移動すれば、技術や文化、祖先への信仰も移動します。
この視点で調べていくと、越が日本列島に与えた影響は、もっと大きなものとして見えてくるかもしれません。
約6,000年前、潟湖のほとりで暮らしていた人々。
約4,000年間、能登の海とともに生きてきた人々。
その人々が築いた技術と交流は、後の越の歴史へどのようにつながっていったのでしょうか。
次回は、いよいよ日本海の向こうへ目を向けます。
大陸から届いた品々。
古代の航海技術。
そして、海を渡った人々。
第17話「海の向こうから来た人々――越と大陸を結ぶ古代の道」へ続きます。