成吉思汗に隠された静御前への返歌|「なすよしもがな」と四文字の謎【1】
1206年、モンゴル高原。
多くの部族や集団を統合したテムジンは、チンギス・ハンという称号を得ました。
日本では「成吉思汗」という四文字で知られる、モンゴル帝国の創始者です。
そして、この四文字には、ある不思議な読み解きが存在します。
「吉野に成りて、水干を思う」
吉野とは、源義経と静御前が別れたと伝えられる場所。
水干とは、静御前が白拍子として身につけた装束です。
つまり、この四文字を、吉野で別れた静御前を今も想っているという意味に読むことができるというのです。
さらに驚くことがあります。
「成吉思汗」という文字を別の方法で読み解くと、
「なすよしもがな」
という言葉にも結びつけられるといいます。
これは、静御前が鎌倉の鶴岡八幡宮で歌ったと伝えられる和歌の結びの言葉です。
しづやしづ しづのをだまき くり返し
昔を今に なすよしもがな
かつて義経とともに過ごした日々を、もう一度取り戻すことができたなら。
静御前が歌ったその願いに、遠く離れた大陸から義経が返事をした。
その返歌こそが「成吉思汗」という四文字だったという説です。
この考え方は、作家・高木彬光の歴史推理小説『成吉思汗の秘密』で取り上げられ、仁科東子による読み解きとしても紹介されています。
私たちはこれまで、源義経が衣川で亡くならず、北方世界を経て大陸へ戻った可能性について考えてきました。
しかし、義経とチンギス・ハンの関係を調べる中で、この四文字と静御前の歌が結びつけられていることには、別の興味が湧いてきます。
もし本当に、名前の中に一人の女性への想いが込められていたとすれば。
それは、歴史に残る英雄の称号であると同時に、遠く離れた大切な人への、個人的な言葉でもあったことになります。
今回は「成吉思汗」という四文字を手がかりに、静御前の歌と義経北行伝説、そして人々が歴史の中に託してきた想いを考えていきたいと思います。
静御前が鎌倉で歌った二首
1186年4月8日。
静御前は、鶴岡八幡宮で舞を披露したと伝えられています。
このとき義経は頼朝から追われる立場にあり、静御前も捕らえられて鎌倉へ送られていました。
静御前は、母の磯禅師とともに鎌倉に滞在していましたが、義経の居場所を知る人物として、頼朝側から厳しい立場に置かれていたと考えられます。
その静御前に、舞を披露するよう命令が下されました。
最初は辞退していたものの、再三の求めによって舞うことになったとされています。
そして、その場で義経を想う二首の歌を披露しました。
一首目は、
吉野山 峰の白雪 ふみわけて
入りにし人の 跡ぞ恋しき
雪に覆われた吉野山を踏み分け、山の奥へ去っていった人。
その人の足跡が恋しいという歌です。
ここで歌われている吉野山は、義経と静御前が別れたと伝えられる場所です。
二首目は、
しづやしづ しづのをだまき くり返し
昔を今に なすよしもがな
過ぎ去った昔の日々を、もう一度今に戻すことができたらよいのに。
そのような願いを表現した歌です。
この二首には、共通するものがあります。
一首目は、去っていった人への想い。
二首目は、失われた時間を取り戻したいという願い。
つまり、静御前は頼朝の前で、自分が今も義経を想っていることを表現したのです。
しかも、静御前が用いたのは武器ではありません。
自分自身が長年磨いてきた歌と舞の技術でした。
私たちは、この出来事を、静御前という一人の女性が自分の想いを表現した場面として考えています。
そして、その歌の中にある「吉野」と「なすよしもがな」という二つの言葉が、後に「成吉思汗」の謎へとつながっていきます。
成吉思汗という四文字を、どう読むのか
「成吉思汗」。
通常はチンギス・ハンというモンゴル語の称号を漢字で表したものとして知られています。
しかし、この四文字を漢字の持つ意味から考えてみると、別の読み方が生まれます。
「成」は、成る、成し遂げるという意味を持つ文字です。
「吉」は、吉野の吉。
「思」は、思う、想うという文字です。
そして、最後の「汗」。
この文字を上下に分けると、「水」と「干」になります。
合わせれば「水干」です。
水干は、白拍子が身につけていた装束の一つです。
静御前も白拍子として活動していた女性でした。
このように四文字を読み解くと、
成吉思汗
「吉野に成りて、水干を思う」
という解釈が生まれます。
これは、文字本来の意味や通常の漢文の読み方ではありません。
日本語の地名や、漢字を分解する遊びを組み合わせた、独特な読み解きです。
しかし、ここで注目したいのは、言葉の組み合わせが単に英雄の名前を説明しているのではないことです。
吉野山。
水干をまとった白拍子。
この二つが結びつくことで、義経と静御前の別れが浮かび上がるのです。
もし、このような意味を意図して四文字が選ばれたのであれば、そこには非常に個人的な想いが込められていたことになります。
天下を統一した英雄の称号に、かつて愛した女性への記憶が残されていた。
そのように考えると、この四文字は、まったく違う表情を見せ始めます。
「なすよしもがな」という、もう一つの読み解き
さらに、この説にはもう一つの重要な要素があります。
それが、静御前の歌の結びです。
昔を今に なすよしもがな
この「なすよしもがな」という言葉と、「成吉思汗」という四文字が結びつけられています。
漢字を音や意味で読み替える方法を組み合わせることで、「成吉思汗」を「なすよしもがな」と読むことができるという解釈です。
ただし、これは通常の万葉仮名の規則に従えば、そのまま成立する読みではありません。
特に「成吉思汗」の四文字から「なすよしもがな」という音を導くには、文字の意味や音を組み合わせた独自の解釈が必要になります。
それでも、この読み解きが興味深いのは、静御前の歌との関係です。
静御前は、昔を今に戻したいと願った。
そして、その願いと同じ言葉が、チンギス・ハンの漢字表記に隠されているというのです。
もし義経が生き延び、大陸へ渡っていたのであれば、静御前の歌を知っていた可能性があります。
ただし、1186年の鎌倉での舞を、義経本人がどのように知ったのかという問題は残ります。
その場には多くの武士たちがいました。
歌は記録にも残されました。
また、歌や物語は、人々の口を通じて伝わることがあります。
そのため、義経が後に静御前の歌を知ったという想定そのものは考えられます。
しかし、実際に義経がその歌を聞いたという記録や、返歌をしたという記録が確認されているわけではありません。
それでも、静御前が残した歌に対し、遠く離れた大陸から返事があったという物語には、人を惹きつけるものがあります。
二人が最後に交わすことのできなかった言葉。
その言葉が、別の土地で英雄の称号になった。
これは、二人の関係を単なる恋愛伝説としてではなく、言葉の記憶という視点から考えるきっかけになると思います。
義経本人が漢字を選んだという説
この読み解きには、さらに踏み込んだ考え方があります。
義経が大陸でチンギス・ハンとなった際、自分自身で「成吉思汗」という漢字を選んだという説です。
その目的は、静御前へ想いを伝えるためだったというのです。
もしこれが本当であれば、話は大きく変わります。
単に後世の人々が四文字に意味を見つけたのではありません。
義経本人が、意図的に言葉を残したことになります。
しかし、ここには重要な問題があります。
1206年にテムジンが称号を得たとき、実際にはどのような言語で称号が使われていたのでしょうか。
モンゴル高原では、モンゴル語が使われていました。
一方、「成吉思汗」は、その称号を漢字で表記したものです。
漢字で表記されたからといって、称号を持つ本人がその漢字を選んだとは限りません。
異なる言語の人名や称号を漢字で記録する際には、発音に近い漢字を選ぶことがあります。
また、記録が成立した時代によって、表記に違いが生まれることもあります。
チンギス・ハンには、「成吉思汗」のほか、「成吉思合罕」など、異なる漢字表記も見られます。
もし義経本人が特別な意味を込めて四文字を選んだのであれば、その漢字表記がいつから使用され、誰によって記録されたのかを確かめる必要があります。
さらに、義経本人が漢字を指定したことを示す文書や、同時代の証言が必要になります。
現時点では、そこまでのつながりを確認できていません。
しかし、だからといって、この説が生まれた背景を考える意味がなくなるわけではありません。
私たちが注目したいのは、なぜこの四文字から静御前への返歌という発想が生まれたのかということです。
そこには、義経と静御前を結びつけようとする人々の歴史観や、二人の物語に込められた想いがあると考えます。
この読み解きを紹介した高木彬光と仁科東子
「成吉思汗」の四文字と静御前の歌を結びつける説は、高木彬光の『成吉思汗の秘密』に関係しています。
高木彬光は、歴史上の謎や推理を題材にした作品でも知られる小説家です。
『成吉思汗の秘密』は1958年に光文社から刊行されました。
この作品では、名探偵・神津恭介が、源義経とチンギス・ハンが同一人物だったという大胆な仮説に挑みます。
物語は、義経が衣川で死んだという説明と、テムジンがモンゴル高原で活動していたという歴史の間にある矛盾を取り上げながら、二人の人生を結びつけようとします。
歴史を題材にした推理小説として、読者に別の見方を提示した作品です。
そして、成吉思汗の漢字に静御前への返歌が隠されているという読み解きは、仁科東子の考察としても紹介されています。
「吉野に成りて、水干を思う」。
「なすよしもがな」。
この二つの解釈は、単純な名前の一致ではなく、静御前の歌と漢字を結びつけるところに特徴があります。
ここで大切なのは、こうした説を紹介した人物が誰であったかだけではありません。
どのような発想から、この文字の組み合わせに注目したのかということです。
普通に「成吉思汗」という四文字を見れば、モンゴルの英雄の名前だと考えます。
ところが、その文字を日本語の意味で分解し、静御前の歌と重ねる。
そこから、これまで見えなかった物語が浮かび上がるのです。
私たちは、歴史探訪においても、こうした発想を大切にしたいと思います。
ただし、発想の面白さと、その解釈が実際の歴史を説明しているかどうかは、別の問題です。
興味深い考え方であるほど、どこまで実際の出来事とつながっているのかを、さらに調べたくなります。
静御前は、本当に義経の返事を待っていたのか
ここで、静御前の人生に戻ってみたいと思います。
静御前は、1186年の鎌倉で義経を慕う歌を披露したと伝えられています。
その後、義経の子を出産しました。
しかし、男の子だったため、頼朝の命令によって命を奪われたと記録されています。
静御前は、その後、母の磯禅師とともに京都へ戻ることを許されました。
ところが、それ以降の人生については分からないことが多く残されています。
以前の歴史探訪では、京都府京丹後市網野町磯にある静御前の生誕地と静神社について取り上げました。
この地域には、静御前が故郷へ戻り、出家して義経の無事と亡くなった子どもの冥福を祈りながら暮らしたという伝承があります。
海を見渡せる土地です。
そして、静御前の父が海に関係する一族の人物だったという伝承も残されています。
さらに、義経がこの地域の船持ちから兵船を調達したという話もあります。
これらの伝承が、すべて実際の出来事を示しているわけではありません。
しかし、静御前が故郷へ戻ったという物語と、義経が海を越えて大陸へ向かったという伝説を重ねると、印象的な情景が浮かんできます。
日本海に面した故郷へ戻った静御前。
北方世界を経て、大陸へ渡ったと伝えられる義経。
二人は遠く離れ、再び会うことはなかったのでしょうか。
もし義経が生き延びていたならば、静御前の行方を知ろうとしたのでしょうか。
静御前は義経からの知らせを待っていたのでしょうか。
その答えは分かりません。
ただ、静御前が最後まで義経の無事を祈ったという伝承が残されていることと、成吉思汗の四文字を返歌とする説には、共通するものを感じます。
それは、離れていても相手を忘れなかったという、人々の想いです。
なぜ、返歌は届かなかったのか
もし「成吉思汗」という四文字が義経の返歌だったのであれば、もう一つの疑問があります。
なぜ、その返歌は静御前へ直接届かなかったのでしょうか。
義経が本当に大陸へ渡り、強大な勢力を築いたのであれば、静御前のもとへ使者を送ることはできなかったのでしょうか。
もちろん、日本列島とモンゴル高原の間には、大きな距離があります。
途中には、異なる文化や言語を持つ人々が暮らしていました。
そのため、現代のように簡単に手紙や知らせを届けられるわけではありません。
しかし、交易や人々の移動が存在していたのであれば、情報が伝わる可能性はあります。
ここで年代を考えてみましょう。
静御前が鎌倉で歌ったのは1186年。
チンギス・ハンが称号を得たのは1206年。
その間には20年の時間があります。
京丹後に残る伝承では、静御前は若くして生涯を終えたといわれています。
もし、その伝承に近い時期に亡くなっていたのであれば、1206年に義経が返歌を込めたとしても、静御前本人には届かなかったことになります。
ここに、返歌説を考えるうえで重要な問題があります。
その言葉は、静御前が生きている間に届けるためのものだったのでしょうか。
それとも、すでに会えなくなった相手への想いを、自分の名前の中に残したという考えなのでしょうか。
さらに、義経が実際に静御前の死を知っていたのかという問題もあります。
これらのことを考えると、単に文字の意味が一致するというだけでは、二人の間で返歌が交わされたとまではいえません。
しかし、返歌という発想の背景には、離れ離れになった二人が、最後まで互いを想っていたという物語があります。
私たちは、その物語がなぜ生まれ、人々の心に残ってきたのかを考えることにも意味があると思っています。