新田義興と矢口の渡し。沈められた舟、消えた渡し場、そして死後に神となった武将の謎【8】
残された最大の謎。義興は何を信じて舟に乗ったのか
矢口の渡しの事件を調べると、舟底の穴や、対岸に待ち構えていた軍勢に目が向きます。
しかし、この事件で最も考えたいのは、義興がなぜその舟に乗ったのかということです。
義興は、それまで関東で戦いを経験してきた武将でした。
父の義貞も、足利方との戦いで命を落としています。
自分自身も1352年の武蔵野合戦に関わり、鎌倉へ進出した経験がありました。
その義興が、なぜ竹沢らの申し出を受け入れたのでしょうか。
本当に相手を信頼していたのでしょうか。
疑いを持ちながらも、鎌倉へ進む機会を逃したくなかったのでしょうか。
関東の情勢を変えるためには、危険を承知で行動する必要があると判断していたのでしょうか。
その答えを、義興本人の言葉から知ることはできません。
もし、義興が一族や家臣たちの将来を考え、再び鎌倉へ進出する可能性を求めていたのであれば、その行動には軍事的な目的があったことになります。
しかし、実際にどのような判断をしたのかは分かりません。
義興を、計略に簡単に騙された人物としてだけ描いてしまえば、その人物が何を実現しようとしていたのかが見えなくなります。
反対に、義興がすべてを見抜いた上で行動したと考えるのも、根拠のない想像です。
分からないことは、分からないまま残す。
その上で、記録に残された行動や、当時の政治状況を一つずつ考える。
それによって初めて、義興という人物の姿へ少しずつ近づけるのではないでしょうか。
父と息子、二つの最期が問いかけるもの
新田義貞は、1338年に越前の藤島で命を落としました。
新田義興は、その二十年後、1358年に矢口の渡しで命を落としたと伝えられています。
父は、少人数で移動する途中に敵軍と遭遇しました。
息子は、少人数で川を渡る途中、計略によって命を落としたとされています。
二人は、異なる状況の中で最期を迎えました。
しかし、どちらの事件にも共通する問いがあります。
なぜ、その場所へ向かったのか。
そのとき、どのような情報を持っていたのか。
何を実現しようとしていたのか。
そして、周囲の人々は、その判断にどのように関わっていたのか。
歴史に残された結果を知っている私たちは、危険だったのだから行かなければよかったと考えることができます。
しかし、当時の二人には、その先に待つ出来事は見えていませんでした。
自分たちが持つ情報と経験をもとに、進む道を選ばなければならなかったのです。
そして、その選択によって、家族や家臣、一族の運命も変わりました。
ただし、一つの判断が悲劇につながったからといって、それまでの人生のすべてが間違っていたことにはなりません。
義貞には、鎌倉幕府を倒した実績がありました。
義興にも、関東で南朝方の軍事活動を担った歴史がありました。
彼らの生涯を最期の場面だけで判断することはできないでしょう。
歴史は、川の向こう側に何を残したのか
新田義興が乗った舟は、残っていません。
実際にどのような仕掛けが施されていたのかも、確かめることはできません。
義興が最後に何を語ったのかも分かりません。
当時の多摩川の流れを、現在の地形から完全に再現することもできません。
しかし、何も残されていないわけではありません。
『太平記』に描かれた事件。
新田神社の由緒。
各地に残る塚や地蔵。
古い河道の痕跡。
そして、江戸時代に生まれた芸能作品。
それぞれに、異なる時代の人々が関わっています。
現代の私たちは、それらを手がかりに、かつてこの地域で何が起こったのかを考えることができます。
歴史の謎を調べる楽しさは、驚くような結論を見つけることだけではありません。
一つの疑問を調べると、別の疑問が生まれる。
記録を読むと、地形を確かめたくなる。
史跡を訪れると、そこに暮らした人々の生活を知りたくなる。
そうして考えを広げていく中で、遠い時代の人物が、単なる名前ではなく、実際に生きていた人間として見えてくるのだと思います。
1358年10月10日。
多摩川の矢口の渡し。
新田義興は、川の向こう側に何を見ていたのでしょうか。
もう一度鎌倉へ進み、新田一族の立場を取り戻す未来だったのでしょうか。
共に戦う新しい仲間たちだったのでしょうか。
それとも、すでに何らかの危険を感じながら、それでも進まなければならないと考えていたのでしょうか。
その答えは、残されていません。
しかし、約七百年を経た現在も、私たちはその問いを考えることができます。
そして、川の流れが変わった今も、新田義興と運命を共にした人々の歴史は、この土地に残されているのです。