新田義宗はどこへ消えたのか。二つの墓、異なる最期の伝承と、新田一族に残された謎【1】
1368年。
上野国と越後国の境に近い山々で、新田義貞の息子・新田義宗が、再び足利方との戦いに立ち上がったと伝えられています。
父の義貞が越前で命を落としてから三十年。
兄の義興が多摩川の矢口の渡しで命を落としてから十年。
かつて鎌倉幕府を倒した新田一族は、すでに多くの中心人物を失っていました。
それでも、義宗は戦おうとしたのでしょうか。
伝承によれば、義宗は上野国沼田付近で足利方の軍勢と遭遇し、右目を矢で射抜かれて落馬し、そのまま命を落としたとされています。
その場所には、今も「うつぶしの森」という名前が残ります。
ところが、義宗の最期を伝える場所は、そこだけではありません。
現在の埼玉県所沢市にある薬王寺にも、義宗が生涯を終えたという伝承があります。
こちらでは、義宗は戦場で命を落としたのではありません。
戦いに敗れた後、身を隠して出家し、再起の機会を待ちながら生涯を終えたというのです。
一人の武将に、異なる二つの最期。
しかも、義宗が最後に挙兵したとされる1368年の戦いそのものにも、史料上の疑問が残されています。
義宗は、本当に沼田で戦死したのでしょうか。
それとも、戦場から生き延びて所沢へ向かったのでしょうか。
あるいは、私たちが知っている義宗の最後の戦いには、後世の人々が加えた物語が含まれているのでしょうか。
新田義貞から始まった歴史探訪は、ここで新たな謎に出会います。
父・新田義貞の死後、義宗はどこで育ったのか
新田義宗は、新田義貞の子として生まれました。
義貞には、金ヶ崎城で命を落とした義顕、矢口の渡しで命を落とした義興、そして義宗らの息子がいました。
ただし、義宗の幼少期について、詳しい生活の様子を伝える記録は限られています。
どこで暮らしていたのか。
誰から武術や政治を学んだのか。
父の義貞と、どの程度の時間を共に過ごしたのか。
その具体的な姿を確かめることは難しいのです。
1338年、父の義貞は越前国藤島で戦死しました。
このころ義宗は、まだ幼い世代だったと考えられています。
しかし、父が亡くなったことによって、新田一族の歴史が消えたわけではありません。
父と共に戦ってきた武士たちがいました。
上野国の新田荘には、一族の長い歴史がありました。
さらに越後には、新田氏の一族や所領に関わる人々が存在しました。
義宗たちは、そうした関係の中で成長していったと考えられます。
ここで重要なのは、義宗が父から完成された軍事組織をそのまま受け継いだわけではないということです。
義貞が戦死した後、軍勢を取り巻く状況は変わりました。
それまで新田氏に従っていた武士の中には、足利方へ移る者もいました。
所領を失った者もいたでしょう。
義宗が成長するころには、父が鎌倉幕府を倒したときとは、まったく異なる政治的な環境になっていたのです。
新田氏の本拠地は、すでに足利方の支配下へ移っていた
新田氏の歴史を考える上で、上野国新田荘は特別な場所です。
現在の群馬県太田市周辺。
この地域は、新田氏が長く関係を持ってきた土地でした。
しかし、義貞が足利尊氏と対立し、南朝方として戦い続けたことで、新田荘の支配関係も変化していきます。
新田氏の一族の中には、足利方に従った岩松氏などもいました。
岩松氏は、新田一族に連なる家でありながら、義貞とは異なる政治的な道を選びました。
その結果、足利方の支配が進む中で、岩松氏は新田荘における重要な立場を築いていきます。
つまり、義宗にとって、父祖の土地へ戻ることは、単に故郷へ帰るという話ではありませんでした。
そこにはすでに、新しい支配者がいました。
かつて同じ一族に属していた人々が、今度は異なる勢力として向き合うことになったのです。
なぜ岩松氏は足利方を選んだのでしょうか。
なぜ義貞の子どもたちは、南朝方として戦い続けたのでしょうか。
両者の選択を、忠義と裏切りという言葉だけで説明することはできません。
それぞれが守ろうとした所領があり、一族があり、周囲の武士たちとの関係がありました。
同じ祖先を持つ一族であっても、置かれた環境が変われば、異なる道を選ぶことがあります。
義宗が生きた時代は、そのような変化の中にありました。