新田義宗はどこへ消えたのか。二つの墓、異なる最期の伝承と、新田一族に残された謎【2】
越後に残された、新田一族のもう一つの基盤
新田一族の活動は、上野国だけに限られていたわけではありません。
越後国にも、新田氏に関係する一族や所領がありました。
現在の新潟県中魚沼郡津南町周辺にあたる地域には、波多岐荘や妻有荘など、新田一族の活動に関係する土地がありました。
越後の里見氏や大井田氏なども、新田氏の歴史と深く関わる一族です。
山々に囲まれた越後の地域は、関東の平野部とは地形も交通条件も異なります。
冬には雪が積もり、山を越える道が制限されることもあります。
一方で、地域の地形を知り、山道や河川を利用できる人々にとっては、外部から攻め寄せる軍勢に対応する上で有利になる場合もあります。
義宗や脇屋義治らは、こうした越後の一族や武士たちとの関係を背景に活動したと考えられています。
ここで、義宗が生き残ることのできた理由が少し見えてきます。
父が戦死しても、兄が戦死しても、一族の関係がすべて失われるわけではありません。
各地に残る親族や協力者が、次の活動を支える可能性があります。
ただし、越後に関係を持つ人々の全員が、新田義宗に従っていたわけではありません。
同じ地域の中にも、足利方を支持する武士がいました。
義宗たちは、そのような複雑な関係の中で活動していたのです。
1352年、義宗は父と同じ相手に立ち向かった
1352年。
新田義宗は兄の義興や脇屋義治らとともに、関東で挙兵しました。
その背景には、足利尊氏と弟の直義の対立によって、室町幕府の内部が大きく揺れていたことがあります。
義宗たちは宗良親王を奉じ、上野から武蔵へ進軍しました。
そして足利尊氏の軍勢と戦います。
小手指原などでの戦いを経て、新田方の軍勢は一時的に鎌倉を占領しました。
父の義貞が鎌倉幕府を滅ぼしてから、約十九年後のことです。
ただし、義宗たちが鎌倉を占領できたのは、足利氏の内部対立や、旧直義方の武士たちの動きとも関係していました。
新田一族だけの力で関東全体を制圧したわけではありません。
また、新田方の軍勢も一つの部隊としてまとまっていたわけではなく、複数の方面で行動していました。
そのため、鎌倉への進出が成功しても、各地の軍勢が同じように勝利していたわけではありませんでした。
足利尊氏は反撃を開始します。
義宗も武蔵野で尊氏の軍勢と戦いますが、最終的に新田方は鎌倉を維持することができませんでした。
再び関東の支配を足利方が回復していきます。
この戦いは、義宗にとって重要な経験だったはずです。
父の時代から続く足利氏との対立。
関東の武士たちとの協力。
一時的な勝利と、その後の撤退。
義宗は、そうした出来事を自分自身の経験として積み重ねていくことになったのです。
鎌倉を失った後、義宗はどこへ向かったのか
1352年の武蔵野合戦後、義宗は越後方面へ退いたと考えられています。
しかし、その後すぐに活動を終えたわけではありません。
越後では、南朝方の武士たちがなお抵抗を続けていました。
1353年には、新田方の拠点であった小国城が足利方に攻められたとされています。
しかし、翌1354年には魚沼地方の武士たちが新田方に協力し、再び軍事活動が行われました。
1355年にも、越後の所領をめぐる戦いに関する記録が残されています。
ここで注目したいのは、こうした活動が『太平記』だけで伝えられているわけではないことです。
越後の武士たちの行動については、三浦和田氏に関わる文書などからも検討されています。
つまり、義宗たちの活動を考える手がかりは、後世の軍記物語だけではありません。
実際に所領をめぐって戦った武士たちの記録が、その時代の動きを伝えているのです。
一方、個々の戦いに義宗自身がどこまで直接関わっていたのかについては、記録ごとに慎重な検討が必要です。
新田方の活動が続いていたことと、義宗が常にその先頭に立っていたことは同じではありません。
それでも、越後での抵抗が続いていたことは、義宗のその後を考える上で重要です。
義宗は、一度の敗北で歴史から姿を消した人物ではなかったのです。