新田義興と矢口の渡し。沈められた舟、消えた渡し場、そして死後に神となった武将の謎【2】
義興を誘い出したのは誰だったのか
『太平記』巻第三十三には、新田義興を討つために仕組まれた計略が詳しく描かれています。
そこに登場するのが、竹沢右京亮と江戸遠江守らです。
足利方は義興を正面から討ち取ることが難しいと考え、別の方法を探ったとされています。
その一つが、味方になると偽って義興に近づくことでした。
竹沢右京亮は、義興に対して足利方から離れて協力する意思があるように振る舞いました。
そして、鎌倉にはまだ新田氏に心を寄せる武士が存在し、そこへ進めば大きな軍勢を集められると伝えたのです。
この話が本当であれば、義興にとって魅力的な提案だった可能性があります。
父の義貞は、かつて各地の武士を集めながら鎌倉幕府を滅ぼしました。
義興自身も1352年に鎌倉へ進出した経験があります。
関東には、新田氏と関係を持つ人々も残っていました。
もう一度鎌倉を押さえることができれば、関東の戦況を変える可能性があります。
しかし、ここで疑問が生まれます。
なぜ義興は、竹沢の申し出を信じたのでしょうか。
人を信じさせるために使われた、もう一つの仕掛け
新田神社の由緒には、竹沢右京亮が義興に近づく際、少将局という女性を義興のもとへ送ったとする話が伝えられています。
身分の高い女性を通じて関係を築き、疑いを解こうとしたというのです。
当時の武士社会では、婚姻や女性を介した関係が、家同士の政治的な結びつきに関わることもありました。
そのため、女性を介した働きかけが政治的な意味を持つこと自体は、不自然ではありません。
しかし、少将局が実際にどのような立場の女性で、どのような意思を持って行動したのかについては、詳しく分かっていません。
そもそも、ここで語られる経緯がどこまで実際の出来事を伝えているのかも慎重に考える必要があります。
一方、義興が竹沢の誘いを信じた理由を、単に女性に心を奪われたからだと説明することも適切ではありません。
『太平記』では、鎌倉に残る新田方の勢力や、足利方からの寝返りによって関東で反攻できるという政治的・軍事的な見通しが語られています。
義興が信じたのは、個人的な関係だけではなく、再び戦況を動かせるという可能性だったのかもしれません。
ただし、それが義興本人の判断理由だったと断定できる記録はありません。
この事件の恐ろしさは、何も考えていない人物が簡単に騙されたという話ではなく、現実にあり得る政治的な提案を利用した計略として伝えられている点にあります。
なぜ、大軍を連れずに鎌倉へ向かったのか
『太平記』によれば、竹沢は義興に対し、大軍を率いて鎌倉へ向かえば足利方に動きを察知されるため、少人数で先に入るよう勧めました。
義興の家臣たちは、別々に鎌倉方面へ向かうことになったとされています。
もしこの記述が事実に基づくなら、義興が少人数になったことは偶然ではありません。
敵に動きを知られないようにするという説明によって、軍勢を分散させられたことになります。
ここで父・義貞の最期との違いが見えてきます。
義貞は、藤島城の戦況を確認するために少人数で移動し、その途中で敵と遭遇したと伝えられています。
一方、義興は、鎌倉への進出を秘密にするために少人数で行動し、その結果、計略に巻き込まれたと軍記は描いています。
どちらも少人数で移動する途中の出来事ですが、その背景は異なります。
義興がどれほどの兵を連れていたのかについても、記録や伝承の数字をそのまま正確な人数として扱うことはできません。
それでも、義興が周囲の主力軍勢から離れて行動したことが、この事件の重要な条件として描かれているのは確かです。
大軍を率いる武将であっても、移動の途中で少人数になれば、身を守る条件は大きく変わります。
それを相手が知っていたなら、攻撃する側には大きな利点が生まれます。
しかし、義興はその危険をどこまで認識していたのでしょうか。