新田義興と矢口の渡し。沈められた舟、消えた渡し場、そして死後に神となった武将の謎【3】
矢口の渡し。川を渡ることが、なぜ危険だったのか
中世の人々にとって、大きな川を渡ることは、現在よりはるかに難しい行動でした。
橋が整備されていない場所では、舟や浅瀬を利用して川を渡る必要があります。
川の流れが速ければ、馬を連れて渡ることも簡単ではありません。
川幅が広い場所では、船頭や舟を管理する人々の協力が必要になります。
そのため、渡し場は重要な交通施設でした。
人が集まり、荷物が運ばれ、武士の軍勢が利用することもあります。
一方で、渡し場には危険もありました。
舟に乗れば、陸上のように自由に移動できません。
敵が岸に現れても、すぐに馬を走らせて逃げることはできません。
舟の中では、大勢が同時に武器を使うことも難しくなります。
さらに、舟を動かす船頭が協力しなければ、目的の岸へ到達することもできません。
義興が矢口の渡しで命を落としたという物語は、まさにその弱点を利用した計略として描かれています。
川は人々を結ぶ交通路であると同時に、移動中の人々が無防備になりやすい場所でもあったのです。
船底に開けられた穴。そんな仕掛けは可能だったのか
『太平記』には、矢口の渡しの舟に細工が施されていたと記されています。
舟底の二か所に穴を開け、そこへ栓となるものを差し込んでいたというのです。
舟が川の中ほどへ進んだところで、その栓を外し、舟を沈めようとしたと描かれています。
この仕掛けについては、考えなければならないことがいくつもあります。
木造船であれば、船底に穴が開くと水が入り込むことは当然考えられます。
しかし、穴の大きさによって浸水の速度は変わります。
舟の大きさや形、乗っている人の数、荷物の重さによっても、沈むまでの時間は異なります。
二か所の穴を開けたからといって、必ず短時間で沈没するとは限りません。
また、舟がどのような構造だったのかも分かりません。
義興が乗った舟そのものは現存していません。
同じ構造の舟を特定し、当時の状態を再現できる資料も限られています。
そのため、『太平記』に記された方法が、実際にどの程度の時間で舟を沈められるものだったのか、現段階では断定できません。
ただし、この仕掛けを物理的に不可能なものと決めつける根拠もありません。
さらに、この事件では舟を沈めることだけが目的ではなかったとされています。
対岸には武装した軍勢が待機し、後方にも射手が配置されていたというのです。
舟の浸水と、岸からの攻撃。
その二つを組み合わせることで、義興たちの行動を制限する計画だったと軍記は描いています。
しかし、どこまでが実際の計画だったのかは、なお検討が必要です。
船頭たちは、なぜ舟を離れたのか
『太平記』では、舟の細工を担当した船頭が水中へ逃れ、義興たちが川の中に取り残されたとされています。
新田神社に伝わる由緒では、船頭が櫓を落とし、それを拾うように見せかけて川へ飛び込んだと語られています。
この場面も、よく考えると不思議です。
舟を操っていた船頭たちは、なぜ自分たちの命を危険にさらしてまで計略に協力したのでしょうか。
金銭や恩賞を約束されていたのでしょうか。
それとも、地域の有力武士との関係によって、協力せざるを得ない立場だったのでしょうか。
具体的な事情は分かりません。
中世の渡し場を利用するには、船頭や地域の人々の協力が必要でした。
もし事件が軍記のとおりに起こったのであれば、義興を誘い出した武将だけでなく、渡し場に関わる人々も計画に参加していたことになります。
一つの計略を実行するためには、複数の人間が役割を分担する必要があります。
その人々が、すべて同じ考えで協力していたとは限りません。
武士の命令に従った者。
恩賞を期待した者。
自分や家族の安全を優先した者。
さまざまな事情があった可能性があります。
ただし、それらは考えられる背景であって、個々の船頭の動機が確認できたという意味ではありません。
歴史の記録には、事件を計画したとされる武将の名前が残る一方で、実際に舟を動かした人々の事情はほとんど残されていないのです。