新田義興と矢口の渡し。沈められた舟、消えた渡し場、そして死後に神となった武将の謎【1】
1358年10月10日。
武蔵国、多摩川の矢口の渡し。
一艘の舟が川へ漕ぎ出しました。
乗っていたのは、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の息子、新田義興と、その家臣たちだったと伝えられています。
義興は、ある人物からの誘いを信じ、鎌倉へ向かおうとしていました。
しかし、舟が川の中ほどへ進んだとき、思いがけないことが起こります。
船頭が舟を離れました。
そして、舟底に仕掛けられていた穴から水が入り、舟は沈み始めたというのです。
さらに、対岸では武装した軍勢が待ち構えていました。
逃げ場を失った義興たちは、そこで命を落としたと『太平記』は伝えています。
ここには、いくつもの不可解な問題があります。
なぜ、幾度も戦場を経験してきた義興が、敵方に関係する人物の誘いを信じたのでしょうか。
舟を沈める仕掛けは、本当に実行できたのでしょうか。
義興が渡ろうとした多摩川は、現在のどこを流れていたのでしょうか。
そして、義興の死後、なぜこの地域では雷や火の玉、怨霊にまつわる伝承が生まれたのでしょうか。
父・新田義貞の最期には、藤島での突然の遭遇戦と、三百年以上後に発見された兜の謎が残されています。
息子・義興の最期には、それとは異なる、人間の思惑が複雑に絡み合う謎が残されているのです。
鎌倉幕府を倒した父と、幕府の時代を知らずに育った息子
新田義興は、1331年に生まれたとされています。
父の義貞が鎌倉幕府を滅ぼした1333年には、まだ幼い子どもでした。
義興にとって、鎌倉幕府を倒すための戦いは、自分が軍勢を率いて参加した経験ではありません。
父や一族の人々から伝えられた出来事だったはずです。
その後、父の義貞は足利尊氏と対立し、京都から越前へ向かい、1338年に藤島で命を落としました。
義興が生まれた年を採用すれば、父が戦死したとき、義興は数え年で八歳になります。
幼い時期に父を失ったことになります。
ただし、義興がどこで暮らし、誰に育てられ、父の死をどのように知らされたのかについて、詳しい記録は残っていません。
義興が父の死を知ったとき、どのような言葉を聞いたのでしょうか。
父が鎌倉幕府を滅ぼした功績を、どのように教えられたのでしょうか。
そして、足利氏と戦い続けることを、いつ自分自身の問題として考えるようになったのでしょうか。
その答えを、私たちは知りません。
しかし、義興は後に南朝方の武将として関東で戦い、足利氏の勢力に対抗する人物となります。
父の人生と息子の人生は、同じではありません。
義興には、義興自身が経験した時代と、そこで求められた判断があったのです。
1352年、鎌倉を取り戻した新田一族
1352年。
新田義興と弟の義宗は、関東で南朝方の軍事行動に参加しました。
武蔵野合戦です。
このころ、足利氏の内部では尊氏と弟の直義を中心とする対立が起こり、幕府の政治と軍事は大きく揺れていました。
観応の擾乱と呼ばれる争いです。
かつて協力して鎌倉幕府を倒した義貞と尊氏が敵同士になったように、今度は新しい武家政権を築いた足利一族の内部でも対立が生じていました。
そのような状況の中で、南朝方は関東への進出を図ります。
義興と義宗も軍勢を率いて戦い、一時的に鎌倉を占領しました。
父の義貞が鎌倉幕府を滅ぼしてから、約十九年後のことです。
しかし、今度も鎌倉を長く維持することはできませんでした。
足利尊氏らの反撃によって、南朝方は退くことになります。
その後も義興は関東で活動し、足利方から警戒される存在となっていきました。
それでは、なぜ義興は1358年に再び鎌倉へ向かおうとしたのでしょうか。
ここから、矢口の渡しの事件が始まります。