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北畠顕家とその一族【第15回・最終回】

2015.08.23

残された北畠一族の運命

顕家の死後、父と兄弟は何を守り、何を受け継いだのか

1338年5月22日、北畠顕家は和泉国石津で戦死しました。

享年21歳。

しかし、北畠一族の歴史は、そこで終わったわけではありません。

父・北畠親房は、その後も南朝を支え続けました。

弟・北畠顕信は、兄が活動した奥州で戦いを続けます。

そして、もう一人の弟・北畠顕能の系統は、伊勢の地で新たな歴史を築いていきました。

さらに北畠一族の名は、後世の奥州にも残されています。

浪岡御所と呼ばれる北畠氏です。

ただし、その系譜には異なる伝承があり、顕家の直系子孫であると断定することはできません。

顕家の死後、北畠一族はそれぞれ異なる土地で歴史を歩んでいきました。

今回は、顕家の死によって何が変わり、何が受け継がれたのかを追いながら、全15回の歴史探訪シリーズを締めくくります。

息子を失った北畠親房

顕家の父・北畠親房は、1293年に生まれました。

後醍醐天皇の側近として朝廷政治に関わり、建武政権の成立後には顕家とともに奥州へ下っています。

顕家が奥州の統治を担った背景には、親房の存在がありました。

親房は宮廷政治の経験を持ち、後醍醐天皇との深い関係を築いていました。

一方、顕家は若くして陸奥守となり、奥州の武士たちをまとめる役割を担いました。

父と息子は、異なる経験を持ちながら、同じ政治的な立場で活動していたのです。

しかし1338年、顕家が戦死します。

親房は、息子を失いました。

親房がその知らせを聞いたとき、どのような思いを抱いたのか。

その感情を詳しく伝える確かな記録は限られています。

悲しみの言葉を想像して補うことはできません。

それでも、親房がその後も南朝のために活動を続けたことは、史料から確認できます。

親房はなぜ東国へ向かったのか

顕家が戦死した1338年、親房は東国で南朝勢力を立て直そうとしました。

同年9月、親房は義良親王や顕信らとともに、伊勢から船で東国へ向かおうとします。

しかし、船団は暴風に遭い、離散しました。

親房の船は常陸国へ到着しましたが、義良親王らは予定どおり東国へ進むことができませんでした。

ここにも、当時の遠征の難しさが表れています。

現代であれば、船がどこにいるのかを通信で確認できます。

しかし、14世紀には、そのような手段はありません。

海上で船団が離れれば、互いの状況を知ることは困難でした。

親房は、予定していた形で東国へ進出できなかった中でも、現地の武士たちと協力して活動を続けることになります。

常陸国で続いた親房の戦い

親房が活動の拠点とした地域の一つが、常陸国でした。

現在の茨城県にあたります。

親房は小田治久らの協力を得て、小田城を拠点に南朝側の勢力を広げようとしました。

しかし、東国でも足利方の勢力は強く、戦いは容易ではありませんでした。

親房は、武士たちに南朝への協力を求める書状を送り、政治的な働きかけを続けます。

その相手の一人が、結城親朝でした。

親朝は、かつて顕家を支えた結城宗広の息子です。

宗広は顕家とともに戦い、1338年に亡くなりました。

その後、息子の親朝は南朝側で活動していましたが、やがて足利方へ転じることになります。

親房にとって、これは重要な協力関係の変化でした。

結城親朝にとっても、一族の将来を左右する政治的な選択だったと考えられます。

父と息子が同じ道を歩み続けるとは限りません。

南北朝時代の戦乱は、その現実を多くの一族に突きつけていました。

『神皇正統記』はなぜ書かれたのか

常陸国で活動していた親房は、歴史書『神皇正統記』を著しました。

1339年頃に成立し、その後も加筆・修訂が行われたと考えられています。

この書物は、日本の歴代天皇の歴史をたどりながら、皇位継承や政治の正統性について論じたものです。

親房は、南朝の立場を正当化する歴史認識を示しました。

しかし、この書物を単純な歴史年表として読むことはできません。

親房は戦乱の中にいました。

足利方と対抗しながら、東国の武士たちに南朝への協力を求めていました。

そのような状況で書かれた歴史書には、政治的な目的もあったと考えられます。

『神皇正統記』が誰に読ませるために書かれたのかについては、研究上も議論があります。

義良親王、後の後村上天皇のためとする理解があります。

一方、結城親朝など東国の武士たちへ南朝の正統性を説く目的を重視する研究もあります。

重要なのは、親房が軍事行動だけでなく、文章を通しても人々へ働きかけていたということです。

顕家が戦死する直前に政治改革を求める奏状を残したことと合わせて考えると、北畠父子が政治と言葉の両面で行動していたことが見えてきます。

関城と大宝城、親房を支えた人々

常陸における親房の活動は、次第に厳しい状況へ追い込まれました。

足利方の攻撃が強まり、親房を支える武士たちの中にも立場を変える者が現れます。

親房は小田城から関城などへ拠点を移し、抵抗を続けました。

関城を支えたのが、関宗祐らの一族でした。

また、近隣の大宝城では下妻政泰らが南朝側として戦いました。

彼らもまた、地域に根ざした武士たちでした。

自らの領地や家臣を抱えながら、親房を支える立場を選んだのです。

しかし、戦況は次第に不利になります。

1343年、親房は東国での活動を断念し、吉野方面へ戻ることになります。

同年11月、関城と大宝城は落城しました。

関宗祐父子らは、城と運命をともにしたと伝えられています。

親房の活動を支えた人々にも、大きな犠牲が生じていたのです。

弟・北畠顕信が受け継いだ奥州の戦い

顕家の死後、奥州における北畠一族の活動を考えるうえで重要なのが、弟・北畠顕信(きたばたけ あきのぶ)です。

顕信もまた、南朝を支える立場にありました。

親房の東国進出計画にも関わり、その後、奥州方面で活動します。

顕信は陸奥介や鎮守府将軍として知られ、兄・顕家が関わった地域で足利方に対抗しました。

しかし、顕信が活動した奥州は、兄が1333年に赴任した頃とは大きく変わっていました。

足利方の勢力は各地に広がり、北畠側の支配を維持することは難しくなっていました。

また、顕家を支えた武士たちの中には、すでに戦死した人物もいました。

同じ奥州であっても、兄と弟が置かれた条件は異なっていたのです。

霊山の陥落

顕家が1337年に移った霊山は、その後も南朝側の拠点として重要な意味を持ちました。

しかし、足利方の攻撃は続きます。

1347年、霊山は足利方によって攻略されたと伝えられています。

顕家が戦死してから約九年後のことでした。

霊山の陥落は、北畠氏が奥州で築こうとした政治的な基盤に大きな影響を与えました。

しかし、霊山が失われたことによって、北畠一族の奥州における活動がすべて終わったわけではありません。

顕信はその後も北奥州などで南朝側の活動を続けました。

ただし、その行動のすべてを連続して追えるわけではありません。

史料が少なくなる時期もあり、活動の具体的な範囲や経過には不明な点が残されています。

顕信の歴史は、顕家の死後も奥州で続いた長い戦乱を考えるうえで重要です。

もう一人の弟・北畠顕能と伊勢国司家

北畠親房の子には、顕家、顕信のほかに、北畠顕能(きたばたけ あきよし)がいました。

顕能は伊勢国司に任じられ、その系統は後に伊勢で勢力を築いていきます。

伊勢は、南朝の拠点である吉野とも地理的な関係の深い地域でした。

伊勢神宮があり、山岳地帯を通じて吉野方面へ通じる交通路も存在していました。

顕能の系統は、伊勢の多気を中心に勢力を広げ、後に伊勢国司家として知られるようになります。

現在の三重県津市美杉町には、北畠氏館跡や霧山城跡が残されています。

ただし、現在残る施設や遺構をすべて顕能本人の時代に直接結びつけることはできません。

北畠氏の伊勢での活動は、その後何代にもわたって続いたからです。

公家から戦国大名へ

伊勢の北畠氏は、南北朝時代を経て、室町時代にも勢力を維持しました。

もともとは京都の公家の家柄だった北畠氏が、地方に領地を持ち、軍事力を備えた有力な領主へと変化していったのです。

この歴史は、北畠一族の大きな特徴です。

顕家が生まれた頃の北畠家は、朝廷政治に関わる公家の一族でした。

しかし、南北朝時代の戦乱を経て、伊勢の北畠氏は地域を支配する武家としての性格を強めていきました。

その後、戦国時代には北畠具教(きたばたけ とものり)らが登場します。

しかし、織田信長の伊勢進出によって、北畠氏の政治的な立場は大きく変わりました。

1570年代には、織田信雄を迎え入れた後、北畠一門が殺害される事件が起こり、伊勢国司家の従来の支配体制は終焉へ向かいます。

顕家の時代から二百年以上を経て、北畠一族は再び大きな転換期を迎えたのです。

奥州に残った北畠氏の系譜

北畠一族の歴史を追うと、もう一つ興味深い問題に行き着きます。

青森県の浪岡御所です。

浪岡には、後世に北畠氏を名乗る一族が存在しました。

この一族は、北畠顕家や顕信の子孫と伝えられています。

しかし、その系譜には複数の説があります。

顕家の子・顕成から続くとする系譜。

顕信の系統とする系譜。

さらに、同じ顕成という人物についても、系図によって親子関係が異なる場合があります。

弘前市立弘前図書館が公開する「浪岡御所系図」の解説では、浪岡御所北畠氏の系図は、確認できる作成年代が近世以降であることが指摘されています。

つまり、南北朝時代の出来事から長い年月を経た後に編まれた系図が多いのです。

そのため、後世に記された系譜をそのまま14世紀の確定した事実として扱うことはできません。

顕家の子孫は本当に奥州に残ったのか

浪岡北畠氏をめぐる伝承には、顕家の子孫が奥州に残ったという話があります。

また、顕家と奥州の女性との関係を伝える説も存在します。

しかし、こうした伝承がすべて同じ史料的な裏付けを持っているわけではありません。

顕家の子とされる人物についても、系図によって記載が異なります。

現時点で重要なのは、顕家の子孫だと伝えられていることと、実際に血縁関係を確認できることを区別することです。

一方、浪岡北畠氏が奥州で一定の地位を持ち、地域の歴史に関わったことは別の問題として検討できます。

仮に顕家との直系関係を確定できなかったとしても、その一族の歴史的な存在まで否定されるわけではありません。

系譜の真偽と、その一族が実際に残した歴史は、分けて考える必要があります。

北畠一族は何を守ろうとしたのか

ここまで、顕家の死後に活動した北畠一族の歴史を追ってきました。

父・親房は、南朝を支えるため東国で活動し、政治思想を文章として残しました。

弟・顕信は、兄が活動した奥州で戦いを続けました。

顕能の系統は、伊勢を拠点とする一族へと成長しました。

そして後世の奥州には、北畠氏の子孫を名乗る一族が現れます。

彼らは、必ずしも同じ場所で、同じ方法によって活動していたわけではありません。

親房は朝廷政治と歴史思想の中で。

顕信は奥州の戦乱の中で。

顕能の系統は伊勢の地域支配の中で。

それぞれ異なる時代と環境に向き合っていました。

ここで考えたいのは、一族を守るということの意味です。

同じ政治的な立場を守り続けることだったのでしょうか。

土地や家名を守ることだったのでしょうか。

あるいは、変化する状況の中で、一族が生き残るための道を選ぶことだったのでしょうか。

その答えは、一人ひとり異なっていたかもしれません。

勝者と敗者では分けられない歴史

北畠顕家は21歳で戦死しました。

政治的な目的であった京都奪還も実現できませんでした。

結果だけを見れば、顕家は戦いに敗れた人物です。

しかし、敗れたからといって、その人物が考え、行動したことの意味がすべて失われるわけではありません。

顕家は奥州で新しい統治体制を築こうとしました。

結城宗広や伊達行朝、南部師行らの協力を得て、政治と軍事の両面で活動しました。

足利尊氏と戦い、二度にわたって奥州から西上しました。

そして、後醍醐天皇の政治に改善を求める奏状を残したと伝えられています。

その行動がすべて正しかったかどうかは、別の問題です。

しかし、顕家が置かれた状況と、何を実現しようとしたのかを考えることには意味があります。

同じことは、足利尊氏や新田義貞、楠木正成にもいえます。

彼らは異なる立場で戦い、それぞれの未来を目指しました。

歴史を勝者と敗者だけで分類してしまうと、その過程で人々が何を考え、何を守ろうとしていたのかが見えなくなってしまいます。

顕家とともに生きた人々の歴史

このシリーズでは、北畠顕家の生涯だけでなく、彼を支えた人々にも目を向けてきました。

父・親房。

弟・顕信と顕能。

義良親王。

奥州の結城氏、伊達氏、南部氏。

そして、敵対した足利尊氏や、同じ南朝側で戦った新田義貞、楠木正成。

それぞれの人物には、それぞれの立場がありました。

また、その周囲には、史料に名前が残らなかった多くの人々がいました。

兵士。

家臣。

家族。

土地を耕し、物資を運び、生活を続けていた人々。

戦乱は、歴史書に名前が残る人物だけの出来事ではありませんでした。

顕家が奥州から京都を目指したとき、その行動を支えたのは、多くの人々の力でした。

そして、顕家が戦死した後も、彼らの人生は続いていました。

歴史は、一人の死で終わらない

1338年5月22日。

北畠顕家は和泉国石津で戦死しました。

しかし、その死によって北畠一族の歴史が終わったわけではありません。

親房は、その後も南朝を支え続けました。

顕信は奥州で活動しました。

顕能の系統は、伊勢国司家として歴史を重ねました。

一族の名は、後世の奥州にも伝えられています。

一方で、その過程では多くの人々が命を落とし、政治的な立場を変え、異なる土地へ移っていきました。

顕家の生涯を考えるとき、21歳で戦死したという結末だけに目を向けることはできません。

その短い生涯の中で、誰と出会い、誰と行動し、どのような判断を重ねたのか。

そして、彼の死後に残された人々が、どのように生き続けたのか。

そこまで追いかけて初めて、北畠顕家とその一族の歴史が見えてきます。

歴史に残された謎のすべてに、明確な答えがあるわけではありません。

史料が失われ、詳しい経緯を知ることのできない出来事もあります。

しかし、だからこそ、残された文章や遺跡、地形、伝承を一つずつ確かめる意味があります。

北畠顕家は、単に若くして戦死した武将ではありませんでした。

京都の公家として生まれ、奥州で政治を担い、多くの武士たちとともに戦った一人の青年でした。

その生涯を追うことは、南北朝時代を生きた人々の姿を探ることでもあります。

北畠顕家とその一族の歴史探訪は、ここで一区切りとなります。

しかし、彼らが生きた時代の歴史は、その後も続いていきます。

人々が何を守り、何を選び、何を次の世代に残したのか。

その足跡は、今も各地の史跡と史料の中に残されています。

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