新田義貞の死後、戦い続けた一族。弟・脇屋義助と二人の息子に残された歴史の謎【9】
なぜ、新田一族の戦いは終わらなかったのか
新田義貞が死んだとき、兄とともに戦ってきた脇屋義助がいました。
義助が死んだ後には、義貞の息子たちがいました。
しかし、それだけで新田一族の抵抗が続いた理由を説明することはできません。
新田氏を支えていた武士たちがいました。
領地を守ろうとする人々がいました。
南朝を支持する勢力との関係がありました。
そして、足利政権の内部にも対立があり、政治の状況は変化し続けていました。
新田一族は、その変化する環境の中で行動していました。
戦いを続けた者もいれば、別の道を選んだ者もいたでしょう。
一族だからといって、全員が同じ考えを持っていたわけではありません。
大切なのは、義貞という一人の人物が死んでも、その周囲にあった人々の関係や問題が、すべて消えるわけではなかったということです。
人は一人で歴史をつくるのではありません。
家族や仲間と関わりながら、時には協力し、時には異なる選択を重ねていきます。
新田義貞の死後も戦いが続いたのは、そうした人々の人生が続いていたからでもあります。
そして、その歩みは次の世代へと受け継がれました。
多摩川に残された、解けない謎
最後に、もう一度、新田義興の最期へ戻りたいと思います。
1358年10月10日。
義興は、矢口の渡しで命を落としたと伝えられています。
その出来事は『太平記』に描かれ、後の時代にも語り継がれてきました。
現在、その周辺には新田神社をはじめ、義興と家臣たちに関わる史跡が残されています。
しかし、当時の川の流れは現在とは異なります。
舟が沈んだとされる正確な場所も、簡単には確定できません。
計略に関わった人物たちが、どこまで実際にどのような行動を取ったのかについても、軍記の記述を慎重に検討する必要があります。
父・義貞が戦死した藤島には、兜の発見と戦死地をめぐる謎が残されました。
息子・義興が命を落とした矢口には、舟の仕掛けと渡し場の位置をめぐる謎が残されています。
そして、義宗のその後にも、明らかになっていない歴史があります。
一族の人々は、異なる時代、異なる場所で生きました。
しかし、その歩みをたどることで、鎌倉幕府滅亡から南北朝の動乱へと続く歴史が、一つの大きな流れとして見えてきます。
新田義貞という人物の死は、一つの時代の終わりではありませんでした。
その後を生きた人々がいました。
新しい戦いがありました。
そして、後世に語り継がれる謎が残りました。
歴史は、勝者が決まったところで終わるものではありません。
敗れた側にも、その後の人生があります。
そこに目を向けることで、これまでとは違う歴史の姿が見えてくるのではないでしょうか。