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新田義貞と金ヶ崎城の悲劇。二人の皇子と息子・義顕を残し、なぜ城を離れたのか【5】

2015.06.19

新田義貞は、息子を見捨てたのか

金ヶ崎城の戦いを振り返ると、どうしても一つの疑問が残ります。

新田義貞は、息子と皇子たちを城に残し、自分だけが生き延びたのではないか。

この疑問を避けてしまえば、義貞という人物の苦しい選択を十分に考えたことにはならないでしょう。

実際に義貞は城を離れ、義顕たちは城内で命を落としました。

その結果は変わりません。

しかし、義貞は城を離れた後、何もせずにいたわけではありません。

杣山城で軍勢を集め、瓜生保らとともに金ヶ崎城の救援を試みています。

その戦いは失敗に終わりました。

もし義貞が城に残っていれば、父と息子がともに命を落とした可能性もあります。

一方、城外からの救援が成功していれば、皇子たちや義顕を救うことができたかもしれません。

しかし、どちらも実際には起こらなかった未来です。

当時の義貞が、どのような成功の見通しを持っていたかを正確に知ることはできません。

だから、義貞の行動を最初から臆病だったと決めつけることも、完璧な判断だったと評価することもできません。

軍事的な目的があったこと。

実際に救援を試みたこと。

そして、その目的を果たせなかったこと。

その三つを分けて考える必要があります。

義貞の決断には理由がありました。

しかし、理由があったからといって、結果として生じた悲劇が消えるわけではありません。

その両方を見つめることが、義貞という人物を理解することにつながるのだと思います。

なぜ、そこまでして戦い続けたのか

ここで、新田義貞が足利尊氏と和解する道はなかったのか、という疑問も生まれます。

足利尊氏も、新田義貞も、かつて鎌倉幕府を倒すために戦った武将でした。

共通の祖先を持つ源氏の一族でもあります。

それなら、二人が再び協力する道もあったのではないか。

確かに、歴史上の可能性として考えることはできます。

しかし、義貞が置かれていた立場を考えると、単純な話ではありません。

義貞には、後醍醐天皇から任された役割がありました。

共に尊氏と戦ってきた家臣や一族がいました。

戦いによって領地や立場を失った人々もいました。

義貞自身が尊氏に従うことと、そうした人々の将来を守ることは、必ずしも同じではありません。

尊氏に従えば、すべての人々が従来の領地や地位を保てたとは限らないのです。

一方で、戦い続ければ、さらに多くの犠牲が生まれる可能性があります。

義貞がその両方をどこまで考えていたのかは分かりません。

また、義貞がどのような政治の仕組みを理想としていたのかを、本人の言葉から詳しく知ることも難しいのが現実です。

ただ、義貞が皇子たちとともに越前へ向かい、金ヶ崎城の敗北後も抵抗を続けたことは、実際の行動として残っています。

その行動の中に、義貞が自分の役割や周囲の人々との関係をどう受け止めていたのかを考える手がかりがあるのではないでしょうか。

勝者となった足利方にも、守るものがあった

金ヶ崎城を攻撃した足利方の武士たちも、単純な悪人として描くことはできません。

彼らには彼らの主君がいて、一族があり、守るべき領地がありました。

足利尊氏や直義のもとで軍事的な役割を与えられ、越前の支配を安定させようとしていた者もいました。

斯波高経にとって、越前に強い新田方の拠点が存在することは、自らの支配を揺るがす問題でした。

高師泰らにとっても、金ヶ崎城を攻略することは軍事的な任務でした。

その一方で、城を包囲され、食料を失い、最後まで抵抗した人々がいたことも忘れてはなりません。

どちらの側にも、それぞれの事情があります。

だからといって、戦争によって失われた命が軽くなるわけではありません。

大切なのは、勝った側と敗れた側のそれぞれが、どのような状況の中で行動したのかを考えることです。

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