新田義貞 鎌倉幕府を滅亡へ導いた十五日間。稲村ヶ崎の海は、なぜ道を開いたのか【9】
稲村ヶ崎の海に残された問い
現在の稲村ヶ崎には、新田義貞の鎌倉攻めを伝える史跡が残されています。
相模湾へ突き出した岬。
海岸へ続く道。
そして、鎌倉を取り囲む山々。
この土地を訪れると、鎌倉がどれほど特徴的な地形を持つ場所だったのかを感じることができます。
しかし、現在の景色が、そのまま1333年の姿だったわけではありません。
海岸線も、山道も、長い年月の中で変わってきました。
義貞が実際にどの道を通ったのかについても、確かな結論が出ているわけではありません。
それでも、稲村ヶ崎には、黄金の太刀を海へ投じたという伝承が残されています。
なぜ、この話は何百年もの間、語り継がれてきたのでしょうか。
義貞が龍神に祈ったという神秘的な場面に、人々が心を動かされたからでしょうか。
それとも、通れないと思っていた場所から軍勢が進入したという出来事が、人々の記憶に強く残ったのでしょうか。
あるいは、人間が自然の変化を利用して困難を乗り越えたという出来事が、後世に伝承として残ったのでしょうか。
その答えを一つに決める必要はないと思います。
歴史には、確かな記録が残っている出来事もあれば、伝承として残されているものもあります。
そして、それぞれの記録や伝承が生まれた背景を考えることで、当時の人々の姿に少しずつ近づくことができます。
義貞が開いた道の先に待っていたもの
1333年5月。
新田義貞は、鎌倉幕府を滅亡へ導きました。
しかし、その勝利によって、すべての問題が解決したわけではありません。
幕府がなくなった後には、新しい政治を築かなければなりませんでした。
それまで幕府を支えてきた武士たちの所領をどう扱うのか。
倒幕に参加した人々へ、どのように恩賞を与えるのか。
そして、天皇を中心とする新しい政治と、長年地域を治めてきた武士たちの関係を、どのようにつくり直すのか。
難しい問題が、次々と現れてきます。
義貞は、鎌倉幕府を倒すことには成功しました。
しかし、新しい政治の中で、自分の考える未来を実現できるとは限りませんでした。
それは、楠木正成にも共通することでした。
千早城で幕府軍の攻撃に耐え続けた正成も、幕府滅亡後には新しい政治の中で難しい立場に置かれました。
そして、足利尊氏もまた、幕府を倒した後に後醍醐天皇と対立することになります。
共通の目的を持って力を合わせること。
そして、その目的を達成した後も協力し続けること。
この二つは、決して同じではありません。
新田義貞の人生も、そこから大きく変わっていきます。