新田義貞と金ヶ崎城の悲劇。二人の皇子と息子・義顕を残し、なぜ城を離れたのか【4】
救援を待つ城内の人々
外からの救援が失敗したことで、金ヶ崎城はさらに厳しい状況に置かれました。
城内には、皇子たちと新田義顕をはじめとする人々が残っています。
彼らは、城外の戦いがどのような結果になったのかを、どこまで把握できていたのでしょうか。
山城では、周囲の動きを見渡せる場所もあります。
しかし、山の向こう側や遠く離れた戦場で何が起きているかを、正確に知ることは簡単ではありません。
救援の軍勢が来ると信じて待ち続けた人もいたかもしれません。
すでに援軍が敗れたことを知り、それでも城を守り続けた人もいたかもしれません。
その一人ひとりが何を考えていたのか、詳しく伝える史料はありません。
けれども、食料が減り、負傷者が増え、外からの援軍が届かない状況が続いていたことは、城内に残された人々にとって大きな負担だったはずです。
戦いの最後まで城を守るということは、敵と戦う勇気だけで成り立つものではありません。
飢えや疲労、先の見えない不安にも耐えなければならなかったのです。
尊良親王と恒良親王。二人に託された運命
金ヶ崎城には、後醍醐天皇の二人の皇子がいました。
尊良親王と恒良親王です。
尊良親王は兄、恒良親王は弟にあたります。
二人は、新田義貞とともに比叡山から越前へ向かいました。
皇子たちが金ヶ崎城にいたことは、単なる身分上の問題ではありません。
新田義貞が足利氏に対抗する上で、後醍醐天皇の政治的な権威を掲げる意味がありました。
特に恒良親王は、皇位継承に関わる存在でした。
しかし、皇子という立場が戦場の危険から守ってくれるわけではありません。
金ヶ崎城が包囲されれば、二人もほかの人々と同じように、その中にとどまらなければなりませんでした。
皇子たちが自らどの程度政治的な判断を行い、戦いに関わっていたのかについては、慎重に考える必要があります。
それでも、二人の存在が金ヶ崎城の攻防に政治的な意味を与えていたことは確かです。
城が落ちれば、新田軍は重要な拠点を失うだけでなく、北陸で掲げていた政治的な中心も失うことになります。
1337年3月6日。金ヶ崎城、落城
3月6日。
金ヶ崎城は、ついに足利方の攻撃によって陥落しました。
城内の兵士たちは、長期間の包囲によって食料や体力を失っていました。
『太平記』には、最後の数日間に夜戦が続いたことが記されています。
しかし、城を守り続けることはできませんでした。
尊良親王と新田義顕は、この戦いで自害したとされています。
恒良親王は捕らえられ、京都へ送られました。
その後、恒良親王も命を落としたと伝えられていますが、最期の具体的な経緯については史料の性格を踏まえて検討する必要があります。
この落城によって、金ヶ崎城を中心とする北陸での反攻構想は、大きな打撃を受けました。
しかし、その損失は軍事的なものだけではありません。
新田義貞は、自分の息子を失いました。
後醍醐天皇から託された皇子たちも守ることができませんでした。
そして、新田方のために戦った多くの武士たちも命を落としました。
城を守っていた一人ひとりに、家族や一族がありました。
その人生が、この戦いによって大きく変わったのです。