新田義貞と金ヶ崎城の悲劇。二人の皇子と息子・義顕を残し、なぜ城を離れたのか【3】
新田義貞は、なぜ城を離れたのか
1337年2月5日。
新田義貞は金ヶ崎城を離れ、杣山城へ向かいました。
弟の脇屋義助らも同行しました。
一方、城には恒良親王、尊良親王、そして義貞の嫡男・新田義顕らが残りました。
この出来事は、義貞の生涯を考える上で、避けて通ることのできない場面です。
なぜ義貞は、皇子たちと息子を城に残したのでしょうか。
義貞は、城内で戦い続けることだけでは包囲を解くことができないと判断したと考えられます。
金ヶ崎城を包囲する足利軍を外側から攻撃しなければ、補給路を回復することは難しい。
そのためには、城外にいる味方と連携し、軍勢を集める必要がありました。
義貞が向かった杣山城には、新田方に加わった瓜生保らがいました。
つまり、義貞が城を離れたことには、金ヶ崎城を救うための軍事的な目的があったと考えられるのです。
ただし、義貞がそのとき、どこまで救援の成功を見込んでいたのかは分かりません。
城内に残る人々が、どれほど持ちこたえられると考えていたのかも分かりません。
確かなのは、義貞が城外で救援を目指す道を選び、義顕たちが城内に残ったということです。
父と息子が、別々の場所で背負ったもの
新田義顕は、義貞の嫡男でした。
その存在は、義貞にとって一族の将来にも関わるものでした。
金ヶ崎城に義顕を残すことは、父としても、一族の当主としても、決して軽い問題ではなかったでしょう。
しかし、当時の武家社会では、家族が軍事的な役割を分担することは珍しくありませんでした。
一族の当主が全軍を率いる一方で、息子や弟が別の部隊や城を任されることもあります。
そのような役割分担は、軍事組織としては必要であっても、家族の安全を保証するものではありません。
義貞が義顕に何を語ったのか。
義顕が父の判断をどう受け止めたのか。
その具体的な会話は残されていません。
だからこそ、私たちは後世の物語をそのまま二人の心情として受け取るのではなく、置かれた状況から慎重に考える必要があります。
義貞は城外で軍勢を集める。
義顕は城内で皇子たちを守る。
父と息子は、同じ目的に向かいながら、異なる役割を担うことになりました。
そして、その別れが最後の別れとなってしまうのです。
金ヶ崎城を救うための反撃
杣山城に入った義貞は、弟の脇屋義助や瓜生保らとともに、金ヶ崎城を救うための行動を開始しました。
城を救援するためには、まず包囲する足利軍の一角を破らなければなりません。
足利方も、それを警戒していました。
敦賀へ通じる道には、敵軍が待ち受けています。
特に樫曲付近は、山地と交通路が関わる重要な場所でした。
1337年2月16日。
義貞・義助・瓜生保らの軍勢は、杣山城を出て金ヶ崎城の救援に向かいました。
しかし、足利方は樫曲付近に防御のための陣地を構え、進軍を阻みます。
そこで激しい戦いが起こりました。
そして、瓜生保が戦死します。
義貞と義助らは、金ヶ崎城へ到達することができず、杣山城へ撤退しました。
瓜生保は、義貞に協力する道を選び、最後は金ヶ崎城を救う戦いで命を落としました。
その判断が何を理由としていたのか、本人の言葉で確かめることはできません。
ただ、義貞の軍勢が苦しい状況に置かれている中で、瓜生保が共に戦ったことは重要です。
勝利が確実な側につくだけではなく、危険を伴う戦いを選んだ人々もいたのです。