東大阪の研究開発現場から生産現場までの「ものづくり」なら【株式会社アリス】試作サンプル、切削加工、精密部品加工、可視化部品製作、透明化処理、現物からの製作、単品OK

  • トップ
  • ニュース
  • 新田義貞と金ヶ崎城の悲劇。二人の皇子と息子・義顕を残し、なぜ城を離れたのか【2】

新田義貞と金ヶ崎城の悲劇。二人の皇子と息子・義顕を残し、なぜ城を離れたのか【2】

2015.06.16

越前を支配していたのは、新田方だけではなかった

義貞が越前へ入ったとき、この地域が一つの勢力に統一されていたわけではありません。

足利方には、越前守護の斯波高経がいました。

斯波氏は足利氏の有力な一族で、越前において重要な軍事的・政治的地位を占めていました。

さらに足利方は、高師泰らの軍勢を送り、金ヶ崎城への攻撃を進めます。

一方、新田義貞にも協力する武士たちがいました。

新田一族のほか、越前各地の武士の中にも、義貞を支持する人々がいたのです。

ただし、武士たちの立場は必ずしも固定されていませんでした。

足利方に従っていた者が新田方へ移ることもあれば、その反対もありました。

そこには一族の存続や領地の問題、これまでの人間関係など、さまざまな事情が関わっていたと考えられます。

義貞にとって必要だったのは、金ヶ崎城を守り抜くだけではありません。

越前から越後方面へ勢力を広げ、新田氏の本来の支持基盤とも結びついていくことでした。

新田氏は上野国を中心に発展してきた一族ですが、越後にも所領や一族の関係を持っていました。

北陸の交通路を確保できれば、そうした人々との連携も期待できます。

金ヶ崎城は、そのための一つの拠点でした。

しかし、城の周囲で足利方の包囲が強まり、北陸で勢力を広げる計画は難しくなっていきました。

杣山城と瓜生保。義貞を支えた越前の武将

金ヶ崎城の戦いで重要な役割を果たした人物に、瓜生保がいます。

瓜生氏は、越前国南条郡の杣山城を拠点としていた武士の一族です。

杣山城は現在の福井県南越前町にあり、山の地形を利用した城として知られています。

瓜生氏については、越後から越前へ移り住んだ一族であったという伝承もあります。

その背景を考えると、越後にも関係を持つ新田氏との間に、地理的・人的なつながりが生まれる余地がありました。

ただし、瓜生保が最初から義貞に協力していたわけではありません。

『太平記』には、瓜生保が一時足利方に従い、その後、新田方へ加わる経緯が描かれています。

当時の武士がどちらの勢力を選ぶかは、単純な忠誠心だけでは決まらなかったのでしょう。

周囲の軍事状況や領地の安全、一族の将来などを考えながら、判断を変えることもあったはずです。

瓜生保は、最終的に新田義貞と協力する道を選びました。

そしてその選択は、瓜生氏自身の運命を大きく変えることになります。

金ヶ崎城を包囲する足利軍

1337年に入ると、足利方による金ヶ崎城への攻撃が本格化します。

高師泰らの軍勢が敦賀に入り、城を包囲しました。

山城への攻撃には、正面から城内へ攻め込む方法もあります。

しかし、地形を利用して守られた城を攻略するには、大きな犠牲を伴う可能性があります。

そこで、周囲を封鎖し、城内の食料や物資が尽きるのを待つ方法も取られました。

兵糧攻めです。

兵糧攻めは、城を守る人々にとって極めて厳しい戦いでした。

敵が攻撃してこない時間にも、食料は減っていきます。

負傷者や病人が出れば、その世話も必要です。

馬にも食料が必要です。

食料が不足すれば、人だけでなく軍馬の維持も難しくなります。

そして、戦いが長引くほど、城内の人々の体力は失われていきます。

『太平記』には、金ヶ崎城の兵糧が尽き、城内が悲惨な状況に追い込まれた様子が記されています。

馬を食べ、最後には戦死者の肉まで口にしたという描写もあります。

この記述がどこまで実際の出来事を伝えているかは、確認できません。

しかし、城が補給を断たれ、深刻な飢餓に陥っていたことは、戦いの経過を考える上で重要です。

金ヶ崎城の兵士たちは、敵の攻撃だけでなく、食料の不足とも戦わなければならなかったのです。

                 一覧へ戻る
アリスの仕事に対する想いを見る オリジナルサンプル制作