新田義貞 鎌倉幕府を滅亡へ導いた十五日間。稲村ヶ崎の海は、なぜ道を開いたのか【8】
鎌倉幕府は、なぜこれほど短い期間で滅亡したのか
義貞が生品神社で挙兵したのは、5月8日。
そして、鎌倉幕府が滅亡したのは、5月22日。
わずか半月ほどの出来事でした。
およそ150年続いた政治体制が、なぜこれほど短い期間で崩れてしまったのでしょうか。
義貞の軍事的な能力が優れていたからでしょうか。
もちろん、その力は重要だったと思います。
しかし、それだけでは説明できません。
義貞の軍勢が鎌倉へ迫る間にも、各地では幕府に反対する動きが広がっていました。
楠木正成は千早城で幕府軍を引きつけていました。
足利高氏は京都で六波羅探題を攻撃しました。
そして新田義貞は、東国で軍勢を集めながら鎌倉へ進みました。
それぞれの行動は、完全に一つの指揮系統で動いていたわけではありません。
しかし、結果として幕府を支える仕組みの各所に大きな負担がかかっていったのです。
幕府軍が義貞との戦いに集中したくても、別の場所でも問題が起きています。
京都の政治的な支配を維持しようとしても、六波羅探題が失われてしまいました。
そして、幕府に従っていた武士たちの中からも、反対する側へ移る人々が現れました。
長年続いてきた政治体制を支えていた人々の関係が、次第に変わっていったのです。
ここで大切なのは、幕府の人々が突然能力を失ったということではないでしょう。
政治の仕組みが大きくなれば、それを維持するためには多くの人々の協力が必要です。
しかし、その協力関係が弱まり、異なる場所で問題が同時に起きると、一つひとつに十分な対応ができなくなることがあります。
鎌倉幕府の滅亡も、そうした複数の要因が重なった結果だったのではないでしょうか。
義貞は、幕府を倒した後に何を見たのか
鎌倉幕府を滅亡へ導いた義貞は、大きな功績を挙げました。
しかし、その勝利は、義貞一人の力によるものではありません。
上野国でともに挙兵した人々。
進軍の途中で加わった武士たち。
戦場で義貞を支えた人々。
そして、各地で幕府と戦っていた別の勢力。
多くの人々の行動が重なって、鎌倉幕府は滅亡しました。
では、義貞自身は、その勝利をどのように受け止めていたのでしょうか。
鎌倉幕府を倒すという目標を達成した喜びがあったのでしょうか。
あるいは、戦いによって失われた仲間たちのことを考えていたのでしょうか。
そして、これから始まる新しい政治に、どのような期待を持っていたのでしょう。
義貞自身の心境を詳しく知る記録は残っていません。
しかし、義貞の人生は、ここで終わったわけではありませんでした。
むしろ、ここから新しい難しさが始まっていきます。
鎌倉幕府を倒すために、同じ方向へ動いていた武士たち。
しかし、幕府がなくなった後、彼らはどのような政治をつくろうとしたのでしょうか。
義貞も、足利高氏も、楠木正成も、最初から同じ考えを持っていたとは限りません。
そして、やがて、その違いが大きな対立へと変わっていくことになります。