鎧を脱いだ巴御前。その後の人生と、91歳まで生きたという伝説【3】
もう一度、巴御前は大切な人々を失ったのだろうか
1213年、鎌倉で大きな戦いが起こった。
和田合戦である。
源頼朝の死後、鎌倉幕府の内部では有力御家人同士の対立が激しくなっていた。
幕府を支えてきた武士たちの間で、権力をめぐる争いが続いていたのである。
和田義盛も、その争いの渦中に巻き込まれていった。
対立した相手は、北条義時。
頼朝の妻・北条政子の弟であり、幕府の実権を握りつつあった人物だった。
かつて同じ幕府を支えていた人間たちが、今度は互いに武器を向けることになった。
そして、和田義盛は一族を率いて戦い、敗れて命を落とした。
ここで、巴御前の伝承が再び動き始める。
もし巴が和田義盛の妻になっていたとすれば、彼女は義仲に続いて、またも大切な人を戦いで失ったことになる。
しかも、二度の戦いには共通するものがある。
義仲を破ったのは、同じ源氏の勢力だった。
和田義盛を破ったのは、ともに鎌倉幕府を築き、支えてきた武士たちだった。
昨日まで協力していた人々が、やがて敵同士になる。
一つの共同体が成立しても、その中の人間関係が永遠に変わらないわけではない。
集団が大きくなり、政治的な立場や利害が変われば、それまでの結びつきが対立へ変わることもある。
義仲の人生でも、和田義盛の人生でも、そのような出来事が起こった。
そして、巴御前が本当に二人の人生に関わっていたなら、彼女はその変化を間近で経験したことになる。
ただ、ここにはもう一つ、重要な事実がある。
和田合戦で義盛は討たれたが、朝比奈義秀については、安房国へ向けて海路脱出した記録が『吾妻鏡』に残されている。
その後の消息には不明な点がある。
そのため、義秀が父と同じ戦場で確実に討ち死にしたと断定することはできない。
この点は、『源平盛衰記』の伝える巴御前の後日談とも区別して考える必要がある。
歴史を調べていると、こうした食い違いに何度も出会う。
物語では一人の人物の運命がきれいに完結していても、実際の記録を追うと、その先が分からないことがある。
しかし、分からないからこそ、調べる意味がある。
越中の地へ向かったという巴御前
和田合戦の後、巴御前はどこへ向かったのだろう。
『源平盛衰記』には、巴が越中国の石黒という土地に身を寄せたという話がある。
現在の富山県南西部にあたる地域である。
この一帯は、木曾義仲が平氏と戦った北陸地方にもつながる。
1183年、義仲軍は倶利伽羅峠の戦いで平氏軍を破った。
その周辺には、義仲とともに戦ったとされる在地の武士たちがいた。
石黒氏も、そのような北陸の武士の一族として伝えられている。
巴御前は、かつて義仲と関係のあった石黒氏を頼って越中へ向かったというのである。
ここで、私たちは一つのことに気づく。
もし巴が実際に越中へ移ったのだとすれば、それは単に静かな土地を求めた旅ではなかったのかもしれない。
義仲が亡くなってから、すでに三十年ほどの年月が流れている。
かつて戦場をともにした人々の中には、亡くなった者もいただろう。
世代も変わっていたはずである。
それでも、昔の関係を頼ることができたのだろうか。
人と人との信頼は、同じ場所で働いている間だけのものなのか。
それとも、一度築いた信頼は、長い年月を経ても残り続けることがあるのか。
巴御前の越中落ちの伝承を読むと、そんなことを考えたくなる。
ただし、ここでも注意が必要である。
巴が実際に石黒氏を頼ったという同時代の確かな記録はない。
石黒氏との関係が、後世になって義仲の物語と結びつけられた可能性もある。
それでも、越中には巴御前の名前を伝える場所が残されている。
これは、物語の外にも目を向けるきっかけになる。
巴塚と葵塚。二人の女性が再び出会う土地
富山県小矢部市石坂には、巴御前に関係すると伝えられる巴塚がある。
そして、その近くには葵御前を祀る葵塚も残されている。
第3回で取り上げた、あの葵御前である。
葵は倶利伽羅峠の戦いで討たれたと伝えられていた。
一方、巴は最後の戦場を生き延び、長い人生を送ったとされる。
異なる運命をたどった二人の女性の名前が、同じ土地に残されている。
これほど興味深いことはない。
巴塚の伝承では、巴は出家して兼生という名を称し、91歳で亡くなったとされている。
また、この地には二人に関係する巴葵寺という寺があったとも伝えられる。
ただし、現在見られる塚や伝承から、巴と葵が実際にこの地に葬られたことまで証明できるわけではない。
寺の成立時期や、伝承がどのように形成されたのかについても、詳しい検討が必要である。
それでも、なぜ巴と葵という二人の名前が並んで残されているのだろう。
生き残った人間と、戦場で亡くなった人間。
その二人を、後の人々が同じ場所で弔おうとしたのだろうか。
あるいは、もともと別々に語られていた伝承が、長い年月の中で結びついたのだろうか。
どちらとも決めることはできない。
しかし、ここには戦場での勝敗とは違う歴史が残っている。
勝った者の名前だけが残るわけではない。
敗れた者も、生き延びた者も、亡くなった者も、後世の人々の記憶の中で生き続けることがある。
巴塚と葵塚は、そんなことを考えさせてくれる場所である。
91歳まで生きたという巴御前
ここで、巴御前の最も不思議な伝承に向き合ってみたい。
91歳まで生きたという話である。
巴の正確な生年は分かっていない。
後世には1157年生まれという説もあり、富山県に残る伝承では1247年に亡くなったとされている。
この二つの年を単純に結びつければ、数え年で91歳となる。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、九十歳を超えるまで生きることは、決して一般的ではなかっただろう。
しかし、寿命が短い時代だったからといって、長生きする人が存在しなかったわけではない。
幼少期の死亡率が高ければ、平均寿命は大きく下がる。
一方で、幼少期を生き延び、病気や戦乱を避けられた人の中には、高齢まで生きる人もいた。
したがって、巴御前が91歳まで生きたという話を、年齢だけを理由に否定する必要はない。
ただし、それを事実として証明する記録もない。
さらに興味深いのは、なぜ巴御前に長寿の物語が与えられたのかということである。
戦場では敵を恐れず戦った女性。
義仲の最後を見届けたとされる女性。
その後、和田義盛の妻になったという女性。
そして、最後には出家して、亡くなった人々の菩提を弔ったという女性。
この人生を一つにつなげると、巴御前は戦乱の時代を長く生き抜いた人物として描かれる。
武芸の強さだけではない。
生き残り、環境の変化に向き合い、失った人々を忘れずに生き続ける。
そこに、もう一つの強さがある。
私たちはこれまで、源義経とテムジンの人生を比較しながら、環境に応じて考え、学び、新しい答えを生み出す人間の力について考えてきた。
巴御前の長寿の伝承にも、同じような視点を向けることができる。
ただし、ここでは少し違う。
義経やテムジンの物語では、困難な環境の中で何を成し遂げたのかという問題が中心にあった。
しかし、巴御前の場合は、何を成し遂げたかだけではなく、何を失い、それでもどう生き続けたのかという問題が浮かび上がってくる。
人間の強さは、何かに勝つことだけで測れるものではないのかもしれない。