壬申の乱の謎|わずかな従者で吉野を出た大海人皇子は、なぜ国家の軍勢を破ることができたのか【10】
勝利した大海人皇子も、地方の力を恐れたのではないか
ここで、さらに踏み込んだ疑問を考えてみます。
大海人皇子は、地方の人々の協力によって勝利しました。
しかし、そのことは同時に、地方の力が非常に大きいことを示していたのではないでしょうか。
今回、大海人皇子を支持した地方豪族たちが、もし近江側を支持していたらどうなっていたでしょう。
不破道を押さえることができなかったかもしれません。
伊賀や伊勢を安全に通過できなかった可能性もあります。
兵士や食料が集まらず、戦いを続けることが難しくなっていたかもしれません。
つまり、大海人皇子の勝利は、地方の協力がどれほど大きな力になるかを示した一方で、その協力が得られなければ中央の政治勢力は非常に弱くなるという問題も浮かび上がらせたのではないでしょうか。
ここに、私たちは国家形成を考えるうえで重要な矛盾を感じます。
中央の権力を強めたいのであれば、地方の力を掌握する必要があります。
しかし、その中央の権力を手に入れるためには、地方の人々の協力が欠かせませんでした。
大海人皇子は、地方の力によって勝利しました。
そして天武天皇となった後は、その地方の力を国家の仕組みの中でどう位置づけるのかという問題に向き合うことになったのではないでしょうか。
もちろん、天武天皇が地方豪族を恐れていたという心理を直接証明することはできません。
しかし、国家制度の整備という動きと、壬申の乱で地方豪族が果たした役割をつなげて考えると、単純な皇位継承争いとは違う歴史の姿が見えてきます。
地方の協力によって勝利した政治勢力が、その後、地方の協力を個人的な関係だけに頼らず、国家制度として確保しようとする。
このような変化が、天武天皇の時代に進んだ可能性を考えることができます。
もし不破道を押さえられなかったら、歴史は変わっていたのか
壬申の乱を振り返ると、不破道の確保は非常に重要な出来事でした。
大海人皇子は、吉野を出発する前から不破道を押さえるために動いています。
その結果、近江側が東国の兵力を集めることは難しくなり、大海人皇子側は美濃やその東の地域で勢力を拡大しました。
では、もし不破道を押さえることができなかったら、どうなっていたでしょうか。
近江側の使者が東国へ到達し、兵士を集めることができたかもしれません。
大海人皇子側が十分な軍勢を集める前に、近江側の軍勢が東へ進んだ可能性もあります。
もちろん、その場合に必ず近江側が勝利したと断定することはできません。
戦争には多くの不確定な要素があります。
しかし、不破道という交通の要衝をどちらが押さえるかによって、双方の動員条件が大きく変わった可能性はあります。
ここで興味深いのは、不破道が特別な技術によって急に造られたものではないということです。
それまで人々が利用してきた道が、戦争という状況の中で重要な意味を持ったのです。
しかも、その道の重要性は、地形によって生み出されていました。
山々があり、人々が通りやすい場所が限られている。
そのため、交通が特定の場所に集まりやすくなります。
誰かが新しく価値を与えたわけではなく、その土地がもともと持っていた条件が、歴史を左右する要因になったのです。
私たちは、ここにも歴史の面白さがあると感じます。
大きな出来事の結果は、政治の中心にいる人々の判断だけで決まるとは限りません。
地形や道、そこに暮らす人々の知識、長年続いてきた地域の仕組みが、思いがけないところで重要な役割を果たすことがあります。
壬申の乱では、不破道がその一つだったのではないでしょうか。