壬申の乱の謎|わずかな従者で吉野を出た大海人皇子は、なぜ国家の軍勢を破ることができたのか【11】
壬申の乱は、誰が天皇になるかだけの争いだったのか
ここまで考えてくると、壬申の乱の見え方が変わってきます。
大海人皇子と大友皇子の争いは、皇位継承をめぐる政治的な対立でした。
しかし、実際の戦争は、皇族二人だけで行われたものではありません。
各地の豪族が参加し、多くの兵士が動員され、道路や橋が戦いの舞台になりました。
食料や物資の生産、運搬も必要だったはずです。
つまり、戦いの背後には、倭国の各地域が持っていた力が存在していました。
ここで私たちは、壬申の乱にもう一つの意味を見いだします。
この戦いは、誰が皇位を継ぐかという争いであると同時に、各地の人々や生産力を誰が動かすことができるのかを示した戦いでもあったのではないか。
近江側には政治の中心がありました。
大海人皇子側には、最初はわずかな従者しかいませんでした。
しかし、実際に人々を動かし、軍勢を拡大したのは大海人皇子側でした。
そこには、道路を押さえる判断、地方豪族の協力、地域社会の力が関わっていました。
そして、大海人皇子は勝利後、天武天皇として国家制度の整備を進めていきました。
ここに、白村江の戦いから続く一つの流れを考えることができます。
白村江の戦いでは、倭国は大軍を海外へ送りながら敗北しました。
壬申の乱では、わずかな従者で出発した大海人皇子が、地域の力を集めることで勝利しました。
この二つの戦いは、まったく異なる出来事です。
しかし、どちらにも共通する問題があるように思えます。
それは、人や物資を集めることと、それらを一つの目的に向かって機能させることは、必ずしも同じではないということです。
そして、国家が発展するためには、各地に存在する力を把握し、結びつけ、継続して動かす仕組みが必要だったのではないでしょうか。
歴史に名前を残さなかった人々が、国の行方を決めたのかもしれない
壬申の乱には、大海人皇子、大友皇子、村国男依、大伴吹負など、多くの人物が登場します。
しかし、その名前を残した人々の背後には、さらに多くの人々がいたはずです。
大海人皇子の使者を迎えた人々。
山道を案内した人々。
兵士を集めた地方の役人。
馬を扱い、荷物を運んだ人々。
食料を生産し、軍勢へ提供した人々。
武器を作り、修理した職人たち。
そして、戦場へ向かった兵士たち。
彼ら一人ひとりが、何を考えて戦いに関わったのかは、ほとんど分かっていません。
大海人皇子を支持した人もいたでしょう。
地域の指導者の判断に従った人もいたかもしれません。
戦争に参加することを望まなかった人もいたのではないでしょうか。
そうした個々の事情を、現在残されている史料から詳しく知ることは難しいのです。
しかし、その人々がいなければ、軍勢は動かなかったはずです。
どれほど優れた作戦を考えても、それを実行する人々がいなければ意味がありません。
どれほど多くの兵士がいても、食料や道具がなければ戦い続けることはできません。
どれほど立派な道路があっても、実際に人や物資を運ぶ人々がいなければ、道としての役割を十分に果たせません。
歴史書に記された大きな戦いも、こうした一つ一つの仕事によって動いていたのではないでしょうか。
そして、その積み重ねが、誰が国家の中心に立つのかという結果にまでつながっていった可能性があります。