白村江の戦いの謎|なぜ倭国は海を越えて大軍を送り、敗北の後に国家をつくり変えたのか【4】
戦場に届かなかった力は、どこにあったのか
大規模な戦争では、戦場にいる兵士だけが戦っているわけではありません。
後方には、兵士を送り出した地域があり、武器を作る工房があり、食料を生産する農村があります。
それらをつなぐ輸送の仕組みが、戦場での活動を支えています。
ここで重要なのは、物資の総量だけではありません。
必要なものを、必要な場所へ、必要な時期に届けられるかという問題です。
例えば、十分な食料が国内にあっても、海を越えて戦場へ届けられなければ兵士は食べることができません。
武器を大量に作っても、実際に使用する部隊へ届かなければ意味がありません。
壊れた船を修理する技術者や材料が不足すれば、船団の行動にも制約が生じます。
また、戦場の状況を本国へ伝え、追加の人員や物資を送るにも時間がかかったはずです。
当時、どのような補給体制が敷かれていたのか、その全体像を示す史料は残されていません。
しかし、大規模な海外派兵を継続するには、国内の生産力と海上輸送を結びつける仕組みが必要だったことは考えられます。
ここで、さらに一歩踏み込んでみます。
倭国の各地域には、船を造る技術、鉄を加工する技術、農業生産を支える仕組みが存在していました。
ところが、それぞれの地域に十分な能力があったとしても、国家全体として自由に使えるとは限りません。
地域ごとに人や物資を管理している豪族がいれば、中央の判断だけですべてを動かすことは難しかった可能性があります。
では、白村江の戦いは、倭国の支配者たちに何を突きつけたのでしょうか。
それは、国全体の生産力が不足しているという問題だけではなかったのかもしれません。
各地に存在する力を、国家全体の目的のために、どこまで確実に動かすことができるのか。
この問いが、敗戦後の国家づくりと深く結びついていたのではないかと考えます。
敗戦後、倭国は何を恐れたのか
白村江での敗北によって、百済復興の望みは失われました。
倭国の軍勢は撤退し、百済からは多くの人々が倭国へ渡ったと伝えられています。
ここで、倭国にとって新たな問題が生まれます。
それまで朝鮮半島へ軍勢を送り込んでいた倭国が、今度は唐・新羅の軍勢による攻撃を受けるかもしれないという問題です。
百済を滅ぼした唐・新羅の軍勢は、海の向こうに存在していました。
倭国が朝鮮半島へ船で渡れたのであれば、逆に海の向こうから倭国へ船で渡ってくることも考えられます。
そうした危険を、当時の指導者たちは意識したのでしょう。
敗戦後、倭国は北部九州を中心に防衛施設の整備を進めました。
664年には水城が築かれ、665年には大野城や基肄城が築かれたと記録されています。
ここで、私たちが考えたいのは、なぜ北部九州だったのかということです。
北部九州は、朝鮮半島との交通や交流において重要な地域でした。
海を越えた人々や技術、物資が行き来してきた地域でもあります。
つまり、倭国にとって外の世界との重要な入口だった場所が、同時に外から攻撃を受ける可能性のある入口にもなったのです。
これまで交流や交易に利用してきた海が、今度は軍事的な脅威を運んでくるかもしれない。
海に対する見方は、白村江の敗北によって大きく変わった可能性があります。
そして、ここには国家の発展を考えるうえで見逃せない問題があります。
外とのつながりを持つことは、技術や文化を受け入れるために重要です。
しかし、つながりが広がるほど、外部の政治的な変化から影響を受ける機会も増えていきます。
倭国は、外の世界との交流によって発展してきました。
白村江の戦いは、その交流が利益だけでなく、大きな危険を伴うこともあると示した出来事だったのかもしれません。