稲荷山古墳と江田船山古墳の謎|東国と九州の鉄剣に刻まれた同じ大王の名は、何を物語るのか【2】
4. 江田船山古墳|九州の大刀に刻まれていたもう一人のワカタケル
稲荷山古墳から遠く離れた九州にも、同じ時代を考えるうえで重要な古墳があります。
熊本県和水町にある江田船山古墳です。
菊池川流域に築かれた全長約62メートルの前方後円墳で、5世紀後半から6世紀初め頃に造られたと考えられています。
1873年、この古墳から多数の副葬品が発見されました。
鉄製の刀剣や武具、馬具、銅鏡、金製の耳飾、金銅製の装身具など、その内容は非常に豊かなものでした。
なかには朝鮮半島との関係を示すと考えられる品々も含まれており、この地域の有力者が広い交流の中にいたことを物語っています。
その中でも特に注目されるのが、銀象嵌銘大刀です。
長さ約91センチメートルの鉄製の大刀には、銀を埋め込む技法によって75文字の銘文が記されていました。
刀身には鳥や魚、馬などの文様も施されています。
そして、その銘文には、稲荷山古墳の鉄剣と同じく、ワカタケル大王を指すと考えられる名前が刻まれていたのです。
ただし、江田船山古墳の銘文は一部の文字が失われているため、すべてを完全に読むことができるわけではありません。
大王の名前についても、稲荷山古墳の鉄剣銘文との比較によって、ワカタケル大王と読む解釈が有力になっています。
かつては別の読み方も考えられていました。
このように、文字が残っていることと、その文字の意味が完全に確定していることは別の問題です。
それでも、関東と九州という遠く離れた地域で、同じ大王の名前が記されたと考えられる刀剣が存在することは、極めて重要です。
5世紀後半の日本列島では、近畿地方を中心とする王権と、東国や九州の有力者たちの間に、何らかの政治的なつながりが存在していた可能性が高いからです。
では、そのつながりは、どのように形成されていたのでしょうか。
5. ムリテという人物|九州の有力者は大王に何を求めたのか
江田船山古墳の大刀銘文には、「无利弖(ムリテ)」と読まれる人物の名前が登場します。
この人物は、大王の時代に「典曹」に奉事したと記されています。
典曹という言葉が具体的にどのような職務を意味していたのかについては、研究上の検討が続いています。
文書や記録、あるいは一定の行政的な職掌に関係した可能性も考えられていますが、後の時代に整備された官職制度をそのまま当てはめることはできません。
重要なのは、ムリテという人物が、大王と関係する何らかの役割を担っていたと記録されていることです。
ムリテは、江田船山古墳に埋葬された人物の一人だった可能性が高いと考えられています。
ただし、複数回の埋葬が行われた可能性も指摘されているため、銘文の人物と埋葬された人物を無条件に同一視することはできません。
それでも、九州の有力者と大王との間に、直接的あるいは間接的な関係が存在したことを考える重要な手がかりになります。
ここで、稲荷山古墳のヲワケ臣と比較してみましょう。
ヲワケ臣は、一族が代々大王に仕えてきたことを強調していました。
一方、ムリテの銘文には、大王に関係する職務のほか、刀を持つ者の長寿や子孫の繁栄、支配する領域を失わないことを願う内容が記されています。
両者には共通点がありますが、記録しようとしている内容には違いもあります。
ヲワケ臣は、一族の歴史と大王への奉仕を残そうとした。
ムリテに関わる銘文は、大王との関係を記すとともに、刀を持つ者とその子孫の繁栄を願っている。
この違いは、地方の有力者たちが、それぞれの立場や目的を持って王権と関係していた可能性を示しているのかもしれません。
また、刀剣が大王から一方的に与えられたものだったのか、それとも有力者が自らの権威を示すために製作させたものだったのかについても、慎重な検討が必要です。
二つの銘文だけで、刀剣の授受や製作の経緯をすべて明らかにすることはできません。
しかし、刀剣という具体的な製品を通じて、政治的な関係や一族の願いが表現されていたことは見逃せません。
6. 刀を作った伊太和と、文字を書いた張安|銘文に残された技術者たち
江田船山古墳の大刀には、さらに興味深い記述があります。
「作刀者名伊太和、書者張安也」
刀を作った者は伊太和(イタワ)、文字を書いた者は張安(チョウアン)である、という意味に解釈されています。
古代の刀剣に、製作に関わった人々の名前が残されているのです。
ここで注目したいのは、刀を作った人物と、文字を書いた人物が区別されていることです。
鉄を加工して刀を製作する技術と、漢字を理解して文章を記す能力は、必ずしも同じものではありません。
銘文からは、異なる役割を持つ人々が製作に関わったことが分かります。
ただし、張安が文章そのものを考えたのか、用意された文章を刀に書き写したのか、あるいは象嵌の工程にどこまで関与したのかについては、銘文だけでは確定できません。
また、伊太和が鉄の素材づくりから最終的な仕上げまでを一人で担当したというわけでもないでしょう。
刀剣の製作には、鉄を加熱し、鍛え、形を整え、研磨し、文字や文様を施すなど、さまざまな工程が必要です。
高度な製品を作り上げるためには、複数の技術や経験が関わっていた可能性があります。
ここに、古代のものづくりを考える面白さがあります。
歴史の記録には、王や豪族の名前が多く残されています。
しかし、実際の社会を支えていたのは、政治的な力を持つ人々だけではありません。
鉄を加工する人、道具を作る人、農地を開く人、建物を建てる人、物資を運ぶ人、そして文字や記録を扱う人。
そうした人々の働きによって、社会は成り立っていたはずです。
江田船山古墳の大刀銘文は、普段は歴史の表舞台に現れにくい技術者の名前を、現代まで伝えてくれました。
では、伊太和や張安は、どこで技術を身につけたのでしょうか。
九州で生まれ育った人物だったのでしょうか。
近畿地方から派遣されたのでしょうか。
それとも、朝鮮半島との交流を通じて日本列島に渡ってきた人々、あるいはその子孫だったのでしょうか。
名前の表記や技術的な特徴から、渡来系の人々との関係を考えることはできます。
しかし、名前だけで出身地や民族的な背景を確定することはできません。
確かなのは、5世紀の日本列島に、鉄を加工する技術と文字を扱う知識が存在し、それらが政治的にも重要な製品の製作に利用されていたということです。
そして、その技術は、ある日突然生まれたものではありません。
多くの人々が経験を積み重ね、他の地域の技術を取り入れ、試行錯誤を繰り返すことで発展してきたはずです。
二振りの刀剣は、古代の権力を物語る資料であると同時に、ものづくりに携わった人々の存在を伝える資料でもあるのです。