稲荷山古墳と江田船山古墳の謎|東国と九州の鉄剣に刻まれた同じ大王の名は、何を物語るのか【3】
7. 金と銀を鉄に埋め込む|古代の象嵌技術はどこから来たのか
稲荷山古墳の鉄剣には金が使われ、江田船山古墳の大刀には銀が使われていました。
どちらも象嵌と呼ばれる技法です。
金属の表面に文字や文様の形に溝を設け、そこへ別の金属を埋め込んで装飾します。
現在でも金属工芸や装飾品の製作などに利用されている技法ですが、古墳時代にこれだけの文字や文様を鉄製品に施していたことは驚くべきことです。
しかも、鉄と金、鉄と銀では、それぞれ材料としての性質が異なります。
鉄は錆びやすく、加工には温度管理や材料の状態を見極める経験が必要です。
金や銀は鉄とは異なる加工特性を持ち、細い線や装飾として用いることができます。
こうした異なる金属を組み合わせ、長い文章や細かな文様を形にするには、材料に関する知識と精密な作業が求められたでしょう。
稲荷山古墳の鉄剣には、合計115文字もの漢字が刻まれています。
文字を配置する位置、文字の大きさ、線の太さ、文字間のバランスなども考える必要があったはずです。
限られた刀身の表面に、決められた文章を読み取れる形で表現する。
そこには、文字を書く技術だけでなく、金属製品として仕上げるための工夫もあったと考えられます。
一方、江田船山古墳の大刀には、文字だけでなく鳥や魚、馬などの文様も施されています。
これらの文様には、単なる装飾以上の意味が込められていた可能性があります。
ただし、その意味を一つに決めることはできません。
当時の信仰や象徴的な表現、あるいは大陸から伝わった意匠との関係など、さまざまな視点から検討する必要があります。
象嵌を含む高度な金属加工技術は、中国大陸や朝鮮半島との交流とも深く関係していると考えられています。
しかし、外から伝わった技術が、そのまま同じ形で使われ続けたとは限りません。
日本列島の職人たちが技術を習得し、必要な製品に応じて工夫を重ねた可能性もあります。
技術が伝わるということは、完成した製品が運ばれてくることだけではありません。
作り方を知る人が移動する。
現地の人に技術を教える。
異なる材料や道具を使いながら、製作方法を調整する。
新しい用途に合わせて技術を発展させる。
そうした過程があって、初めて技術は地域社会の中に根づいていきます。
5世紀の日本列島でも、このような技術の伝達や蓄積が進んでいたのではないでしょうか。
8. なぜ東国と九州に同じ大王の名前が残されたのか
ここで、最初の疑問に戻ってみましょう。
なぜ、埼玉県の稲荷山古墳と、熊本県の江田船山古墳に、同じワカタケル大王の名前が残されていたのでしょうか。
一つの解釈は、5世紀後半の王権が、東国から九州まで広い地域に政治的な影響力を及ぼしていたというものです。
稲荷山古墳のヲワケ臣は、大王に仕える武人的な役割を担っていたと考えられます。
江田船山古墳のムリテも、大王に関係する職務に携わっていたと記されています。
この二人が直接面識を持っていたかどうかは分かりません。
しかし、それぞれの地域にいた有力者が、同じ大王を意識していた可能性は高いといえるでしょう。
ただし、ここで注意したいことがあります。
現在の日本では、国の法律や行政制度が全国に及んでいます。
しかし、5世紀の日本列島に、そのような統一された仕組みが存在していたとは考えにくいのです。
地方には独自の勢力があり、土地や人々をまとめる有力者たちが存在していました。
その有力者たちが、近畿地方を中心とする王権と関係を結ぶことで、広い政治的なネットワークが形成されていた可能性があります。
王権にとっては、地方の有力者たちと協力することで、遠方の情報や物資を得たり、軍事的な力を確保したりすることができたかもしれません。
地方の有力者にとっても、王権との関係を持つことは、地域社会における自らの地位を示すうえで意味があったのでしょう。
もちろん、すべての関係が対等だったとは限りません。
軍事的な圧力によって従属した地域もあれば、婚姻や贈答、共同の利益を通じて関係を深めた地域もあったかもしれません。
地域によって、王権との距離や結びつき方は異なっていた可能性があります。
また、王権と関係する地方の有力者が存在したからといって、その地域に暮らすすべての人々が同じ政治的な意識を持っていたとも限りません。
鉄剣や大刀の銘文は、あくまでもそれを製作し、所有し、後世に残そうとした人々の立場から記されたものです。
そのため、銘文に表現された政治的な関係と、当時の社会全体の実態を区別して考える必要があります。
それでも、二つの刀剣が示す事実は大きな意味を持っています。
5世紀後半の日本列島には、遠く離れた地域の有力者たちが共通して認識する大王が存在し、その名前を自らの歴史や立場と結びつけて記録する文化があったのです。
9. 王権を支えたのは政治だけではない|人と技術のネットワーク
古代の王権が広い地域と関係を持つためには、政治的な約束だけでは十分ではなかったでしょう。
遠く離れた地域との交流を維持するには、人や物が移動する仕組みが必要です。
各地で生産された農産物や鉄製品、さまざまな資源が運ばれ、人々が移動し、情報が伝えられていたと考えられます。
特に鉄は、古墳時代の社会に大きな影響を与えた重要な材料でした。
鉄製の農工具は土地を耕し、木材を加工し、生産活動を支える道具となります。
鉄製の武器は、軍事力を支える重要な装備でした。
また、鉄を加工する技術が発展することで、さまざまな道具や製品が作られるようになりました。
こうした鉄製品の生産や流通を考えるとき、政治的な権力だけでなく、製作技術を持つ人々の存在が欠かせません。
材料があっても、加工できる人がいなければ製品は完成しません。
加工できる人がいても、必要な道具や燃料、設備がなければ製作は進みません。
そして、完成した製品を必要な場所へ届けるためには、運搬や交易に関わる人々も必要です。
つまり、広い地域を結びつける力は、王や豪族の命令だけで成り立っていたわけではないはずです。
人々の移動や物資の流通、技術の伝達といった実際の活動があって、初めて地域同士の関係は維持されます。
江田船山古墳の大刀に残された伊太和と張安の名前は、そのことを考えるきっかけになります。
王の名前が歴史に残る一方で、製品を実際に作った人々の名前が残ることは多くありません。
しかし、技術を持つ人々がいなければ、王権の権威を示す品々も生まれなかったでしょう。
さらに、新しい技術が地域に伝われば、その影響は特定の王や豪族だけにとどまらなかった可能性があります。
技術を学んだ人が別の製品を作り、次の世代に方法を伝え、新しい用途を見つけていく。
そうした積み重ねによって、地域全体の生産活動が変化していったことも考えられます。
古代の政治的なネットワークと技術のネットワークは、別々のものではなく、互いに関係しながら広がっていたのかもしれません。