藤原秀衡はなぜ義経を守ったのか|政治的利害か、運命共同体か【3】
秀衡と義経は、いつから仲間だったのか
ここまで考えてきて、私たちは一つの重要な問題にたどり着きます。
秀衡と義経は、いつからつながっていたのでしょうか。
義経が初めて平泉に来たときに、二人の関係が始まったのでしょうか。
それとも、義経が平泉へ来る以前から、両者の周囲にいた人々の間につながりがあったのでしょうか。
私たちは、後者の可能性を重視しています。
義経一行が大陸の騎馬文化を受け継ぐ運命共同体だったという仮説に立てば、その人々が東北へ移動してきた経緯を考えなければなりません。
また、奥州藤原氏が北方交易に深く関わっていたのであれば、両者の人々が以前から交流していた可能性もあります。
その場合、義経が平泉へ向かったことは、偶然でも、単なる逃避行でもなかったということになります。
以前から関係のある人々のもとへ向かった。
そして秀衡は、そのつながりを持つ人々を受け入れた。
私たちは、そのような歴史の姿を考えています。
ただし、この関係を明らかにするには、まだ多くの問題があります。
義経一行の具体的な移動経路。
北方世界との人的なつながり。
奥州藤原氏の交易網。
義経の幼少期の生活。
秀衡と義経が実際にどのような関係を持っていたのか。
これらを一つずつ確かめていく必要があります。
しかし、分からないことが多いからこそ、最初から可能性を狭めずに考えることが大切だと思います。
秀衡が義経を守った理由
私たちは、藤原秀衡が義経を守った理由を、単なる政治的な計算だけではなく、北方世界で育まれてきた人々のつながりから考えています。
奥州藤原氏は、約100年にわたり東北の政治や経済を支えてきました。
その背後には、農業、建築、金属加工、馬の飼育、物資の輸送、交易など、さまざまな仕事を担う人々がいました。
平泉の繁栄は、そうした人々が協力して築き上げたものです。
そして私たちは、義経一行もまた、異なる技術や役割を持つ人々からなる運命共同体だったと考えています。
もし両者が北方世界の交流によって結びついていたのであれば、秀衡が義経を守った理由も、単純な主従関係や軍事的な利害だけでは説明できません。
義経は、秀衡にとって利用価値のある武将というだけではなかった。
ともに生きる人々のつながりの中にいる、守るべき仲間だったと考えます。
そして、秀衡が亡くなった後、その関係を次の世代が維持できなかったことが、義経と奥州藤原氏の運命を大きく変えたのではないでしょうか。
ただし、ここで新たな疑問が生まれます。
義経は、本当に1189年に衣川で命を落としたのでしょうか。
義経が衣川で最期を迎えたという記録は残されています。
一方、東北や北海道には、義経が北へ向かったという伝承が残されています。
もし義経一行が、私たちの考えるような北方世界とつながる運命共同体だったのであれば、彼らには再び北へ移動するための知識や人的な関係があったかもしれません。
さらに、秀衡が義経を守ろうとしていたのであれば、万一に備えて逃れる道を考えていた可能性も検討する必要があります。
衣川で何が起きたのか。
誰が義経の最期を確認したのか。
義経とともにいた人々は、すべて同じ場所で命を落としたのでしょうか。
そして、北へ向かったという伝承は、どのような経緯で各地に残されたのでしょうか。
次回は、衣川の最期と義経北行伝説を取り上げ、義経一行のその後を考えていきたいと思います。
次回:衣川の最期と義経北行伝説|義経一行は本当に滅びたのか