稲荷山古墳と江田船山古墳の謎|東国と九州の鉄剣に刻まれた同じ大王の名は、何を物語るのか【1】
5世紀の日本列島では、大きな変化が起きていました。
各地に巨大な前方後円墳が築かれ、鉄製の武器や農工具が普及し、朝鮮半島との交流を通じて新しい技術や文化が伝わっていました。
近畿地方には大きな政治的勢力が形成され、その影響は東国から九州にまで及んでいたと考えられています。
しかし、その実態については分からないことが数多く残されています。
当時の日本列島には、現在のような行政制度も、全国を一律に統治する仕組みも確立していませんでした。
各地には独自の力を持つ有力者が存在し、それぞれの土地で人々をまとめ、農業や生産活動を支え、地域社会を形成していたはずです。
では、そうした地方の有力者たちは、近畿地方を中心とする王権と、どのような関係を結んでいたのでしょうか。
命令を受ける従属的な存在だったのでしょうか。それとも、互いの利益を認め合いながら協力する関係だったのでしょうか。
この謎を考えるうえで、極めて重要な手がかりとなるものがあります。
埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣と、熊本県の江田船山古墳から出土した大刀です。
二つの古墳は、直線距離でも大きく離れています。
ところが、そこから発見された鉄製の刀剣には、同じ大王を指すと考えられる名前が刻まれていました。
「ワカタケル大王」
この名前は、5世紀の日本列島に何が起きていたのかを考えるうえで、大きな意味を持っています。
なぜ、遠く離れた地域の刀剣に同じ大王の名前が残されたのでしょうか。
そして、さらに興味深いのは、そこに記されていたのが大王の名前だけではなかったことです。
地方の有力者と思われる人物の名前、先祖から続く系譜、王権における役割、さらには刀を製作した人物や文字を書いた人物の名前まで残されていました。
そこには、王と地方の関係だけでなく、古代のものづくりを支えていた人々の存在も見えてくるのです。
今回は、二振りの刀剣に刻まれた文字を手がかりに、5世紀の日本列島をつないでいた政治、人、そして技術の関係を探っていきます。
1. 稲荷山古墳の鉄剣|錆の下から現れた115文字
埼玉県行田市には、関東地方を代表する大規模な古墳群である埼玉古墳群があります。
その中でも、比較的早い時期に築かれたと考えられているのが稲荷山古墳です。
全長約120メートルの前方後円墳で、築造年代は5世紀後半頃と推定されています。
1968年、この古墳の発掘調査によって、後円部から複数の埋葬施設が発見されました。
そのうちの一つは盗掘を受けておらず、鉄剣をはじめ、武器、武具、馬具、鏡、装身具などが残されていました。
発見された鉄剣は、全長73.5センチメートル。
当初は錆に覆われており、現在知られているような重要な銘文が存在するとは分かっていませんでした。
ところが1978年、保存処理の過程で驚くべき発見がありました。
鉄剣の表面に57文字、裏面に58文字。
合計115文字の漢字が、金を埋め込む技法によって刻まれていたのです。
金錯銘鉄剣と呼ばれるこの鉄剣は、日本の古代史研究に大きな影響を与えることになりました。
なぜなら、それまで文字資料が非常に限られていた5世紀の日本列島について、当時の人々自身が残したまとまった記録が見つかったからです。
埼玉県立さきたま史跡の博物館
『古事記』や『日本書紀』は、古代日本を知るための重要な史料です。
しかし、これらが編纂されたのは8世紀であり、5世紀の出来事からは長い年月が経過しています。
伝承や記録がどのように受け継がれ、整理されたのかについては、慎重に考える必要があります。
一方、稲荷山古墳の鉄剣銘文は、5世紀に記されたと考えられる同時代の資料です。
後の時代の人々が語り継いだ歴史ではなく、当時を生きた人々が何を記録し、何を後世に残そうとしたのかを直接考えることができます。
その115文字には、一人の人物と、その祖先たちの歴史が刻まれていました。
2. ヲワケ臣とは何者だったのか|八代にわたる一族の記憶
稲荷山古墳の鉄剣銘文には、「乎獲居臣」と記された人物が登場します。
一般に「ヲワケ臣」と読まれる人物です。
銘文は「辛亥年七月中」という年紀から始まり、ヲワケ臣の祖先にあたる「意富比垝(オホヒコ)」から、ヲワケ臣本人までの八代にわたる系譜を記しています。
さらに、その一族が代々「杖刀人首」として仕えてきたことが記されています。
杖刀人とは、大王の身辺で武器を持ち、警護などを担当した人々と解釈されることが多く、「首」はその集団を率いる立場を表すと考えられています。
つまり、ヲワケ臣は単なる地方の有力者ではなく、大王の近くで重要な役割を担った人物だった可能性があるのです。
しかし、ここで一つの疑問が生まれます。
なぜ、ヲワケ臣は自分一人の功績ではなく、八代にわたる祖先の名前を鉄剣に記録したのでしょうか。
一つの可能性は、一族が長い年月にわたって王権と関係を築いてきたことを示すためだったというものです。
自分が突然大王に仕えるようになった人物ではなく、祖先の代から特別な役割を担ってきた一族の後継者である。
そのような立場を明らかにすることで、自らの権威や正統性を示そうとしたのかもしれません。
ただし、銘文に記された系譜を、そのまま現在の戸籍のような正確な血縁記録と考えることには注意が必要です。
古代社会では、系譜そのものが政治的な意味を持つことがありました。
実際の血縁関係に加え、一族の由来や社会的地位を説明するために、系譜が整理されることも考えられます。
それでも、この銘文から読み取れる重要な点があります。
5世紀の人々が、祖先から受け継いできた関係や役割を、自分たちの存在を支える重要なものとして認識していたことです。
王に仕えるという行為も、一代限りの関係ではなかったのかもしれません。
人と人との結びつきが世代を越えて受け継がれ、それが政治的な関係を支えていた。
鉄剣の115文字は、そんな古代社会の姿を想像させてくれます。
3. ワカタケル大王|鉄剣に刻まれた王の名前
稲荷山古墳の鉄剣銘文には、さらに重要な記述があります。
「獲加多支鹵大王」
一般に「ワカタケル大王」と読まれる名前です。
銘文には、この大王が「斯鬼宮(シキ宮)」にいた時代に、ヲワケ臣が天下を治めることを補佐したという趣旨の記述が見られます。
このワカタケル大王は、『古事記』や『日本書紀』に登場する雄略天皇にあたるとする説が有力です。
雄略天皇は、5世紀後半に活動したと考えられる大王で、『日本書紀』では強い政治的権力を持つ人物として描かれています。
また、前回取り上げた「倭の五王」の一人である「武」と、雄略天皇を同一人物とする見方も広く知られています。
ただし、これらは異なる史料を比較して導かれた解釈です。
鉄剣の銘文そのものに「雄略天皇」や「倭王武」と記されているわけではありません。
また、「辛亥年」は干支による年の表記であり、一般には西暦471年に比定されますが、その年代も銘文と歴史的な状況を照らし合わせて考えられています。
ここで興味深いのは、ヲワケ臣がワカタケル大王の名前を刻むことによって、自らの立場を説明している点です。
ヲワケ臣にとって、大王との関係は後世に残すべき重要な事実だったのでしょう。
しかし、それは必ずしも、地方のすべての有力者が大王に一方的に従属していたことを意味するものではありません。
当時の王権は、地方の有力者たちが持つ軍事力や経済力、人々をまとめる力を必要としていた可能性があります。
地方の有力者もまた、王権との関係を通じて、自らの立場を強化することができたのかもしれません。
王権の力が地方に及んでいたことと、地方が完全に王権の管理下に置かれていたことは、同じではありません。
二つの違いを考えることが、5世紀の政治的な仕組みを理解するうえで重要になります。